うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230309 平野啓一郎講演会に行く。

静岡大学翻訳文化研究会が主催する講演会が無料だったので聞きに行く。講演者は小説家の平野啓一郎。演題は「多言語の中の日本小説」。

 

会場である静岡県男女共同参画センター「あざれあ」は、思ったより駅から離れていた。「男女」と掲げているけれど、比重は「女」のほうにあるようだ。というよりも、現代の日本社会において「男女共同参画」を考えるとなれば、それは必然的に女性のエンパワメントという方向性になるのだ、というべきだろうか。図書「館」と言うにはあまりにも小ぶりだが、図書室と言うにはあまりにも充実しているスペースには、女性の書き手や、女性問題にかんする本が並んでいる。1階のロビーには、LGBTQについてのパネル展示のようなものがあった。しかし、ビル全体で見ると、公共の貸し会議室のようなスペースの占める割合が大きいのかもしれない。講演会の会場は100人は入れそうな大きさだった。

 

静岡大学翻訳文化研究会は、かつて静岡大学がとある翻訳賞の選考にかかわることになったときに発足し、その後、長年にわたって続いてきた会とのこと(このあたりはうろ覚えなので、間違いがあるかもしれない)。今回のイベントで会としては一区切り、というような話もあったと思う。このようなご時世なので、できるかぎり宣伝を控えた結果、狙いどおり、多すぎも少なすぎもしない、ちょうどよい人数の会になった、と開会のあいさつにあった。なぜもっと大々的に宣伝しないのだろうと申し込んだときに思ったのだけれど、意図的に露出を控えていたのかと、ちょっと納得。

 

平野啓一郎の講演は、よく言えばとてもリラックスしたもので、ひじょうに楽しく聞けた。しかし、意地悪な言い方をすれば、彼の心中にある話題を手際よくつないだもので、まとまったひとつの話というよりは、いくつかの小ネタの集積であり、使い回しのように感じられた。

 

ドナルド・キーンの話から始まったのは、今年がキーン生誕100年にあたり、あちこちでイベントが行われており、平野自身もトークに呼ばれていて、話の枕にしやすかったということなのだろうけれど、この導入はキーンと日本の80年代以降の小説の距離、そして平野と日本の文壇の関係のようなものを浮き彫りにすると同時に、平野自身の小説かとしての出発点を明るみに出す、巧みなイントロダクションになっていた。

平野によれば、キーンは彼の同世代にあたる三島由紀夫と親しく付き合っていたし、三島の上の世代に当たる川端康成とも交流があった。戦後は、明治以降の日本近代文学が海外に受容され始めた時期であり、そのような中、キーンは日本文学の海外への発信者として、大きな役割を果たしたのだった。

しかし、三島以降の世代となると、キーンの交流は手薄になる。大江健三郎とはある時期までは親交があったものの、それもとあることをきっかけに途絶えてしまい(平野はそれがどのようなことだったのか明言しなかった)、キーンは晩年、大江との交流が途切れてしまったことを悔いていたという。

キーンは80年代に登場したポストモダン作家たち――村上春樹村上龍高橋源一郎吉本ばなな――にある種の距離感を覚えていたし、ポストモダン批評にたいしても同じ思いを抱いていたらしい。そして、92年の中上健次の死去の後、三島にたいする冷淡さはいや増すばかりであった。

そんな中、三島に敬愛を抱く平野は、彼の世代の小説家のなかでは例外的に、キーンと付き合う機会を持ちえたのだという。

 

それは個人的にとてもよくわかる気がする。キーンは、良くも悪くも、古典的な文学研究者であり、翻訳者だった。彼が愛したのは、日本近代文学の純文学的な側面であり、古典の伝統性ではなかっただろうか。もしかすると彼の感性は、アメリカ的というよりも、ヨーロッパ的なものだったのかもしれない。だからこそ、軽やかな、反-伝統的とまでは言わないまでも伝統批判派であり、アメリカ的なポストモダンな作家たちにも、文学「理論」をふりかざしてテクストを解読していくポストモダンな批評家たちにも、親近感を抱けなかったのではないだろうか*1

 

平野は早くから三島に傾倒していた。とくに『仮面の告白』と『裸体と衣装』に影響を受けたそうだが、それは、三島からの影響にとどまるものではない。というのも、とりわけ『裸体と衣装』は、日記文学という形式をとっているが、外国文学の読書日記としても読めるテクストであり、平野は三島に導かれて、三島の言及する外国文学を読み進めていくからだ。

そのとき彼が手に取ったのは岩波文庫の赤だった。つまり、かなり古い翻訳である。

こうして、彼は、彼より上の世代が読んだのと同じ翻訳で、日本の近代文学が影響を受けてきた海外文学を吸収していったのであり、彼の近代日本語にたいする愛着も、そこで生まれたのだという。また、古い翻訳で読んだおかげで、彼からすると両親や祖父母の世代に当たる作家たちとも、話が弾んだという。

 

平野は明治近代文学者のなかで森鴎外にフォーカスしていたけれど、それは鴎外が「業績」や「性病」といった新語の発案者であり、西欧語の翻訳を務める一方で、前近代の日本語を使いこなしながらも、近代日本語を作り出していったからであるようだ。平野に言わせると、「舞姫」は西欧言語的な構造を日本語的な雅文調で包んだものであり、九州の小倉に転勤になった時期の作品である「鶏」ではフランス語がそのままテクストに登場するという。

そのような話を聞きながら、平野の提唱する「分人」は、明治近代において西洋語を日本語に翻訳/として創出しようとした文人たちにたいするオマージュのようなものなのだろうか、という思いが頭をよぎった。

 

平野は読者にとって読みやすい文体を心がけているという。しかし、認知科学的なアプローチを探ってみて彼がたどりついた結論は、読みやすさは、わたしたちの認知プロセスと文の流れがシンクロしているかどうか、というものだったという言う。だから、描写をいたずらに厚くすることは、効果的とは言えない。わたしたちの夢はリアルに感じられるけれども、夢は決して細部まで事細かに描かれているわけではない。

それは別の言い方をすれば、使う単語それ自体の難易度というよりも、単語の順序のほうが、読みやすさを大きく左右するということでもある。

たとえば、「黒いコート」というフレーズに「ランバン」というブランド名を形容詞として付け加える場合、どこに入れるか。「ランバンの黒いコート」だと、ブランドを知らない読者にまず違和感を与えてしまう。その一方で、「黒いランバンのコート」だと、ブランドを知らなくてもとりあえず黒いコートだという情報はまちがいなくきちんと伝わる。

文体的なレベルでも、描写のレベルでも、平野はこのような配慮を心がけるようになってきたという。その結果、使う言葉の難易度はとくに変わっていないものの、以前に比べると、読みづらいという反応が減ったという。

という話を聞くと、平野にとっての文体は、純粋に美学的な領域に属するものではないということなのかという気がしてくる。もちろん、彼が文体それ自体の美的価値に無関心のはずはないし、ボルヘスを引きながら、ヘブライ語を直訳したがゆえに生まれた「king of kings」の英語の言い回しがあるように、直訳によって生まれる新しい表現の可能性を肯定的に捉えている。つまり、彼は翻訳のパラダイムでいえば、意訳=同化派というよりも、直訳=異化派になるのかもしれない。

しかし、そのような用語レベルでの異質さを面白がる一方で、語順といったシンタックスのレベルにおいては、こう言ってよければ、科学的普遍性というか、生物学的な傾向に寄り添っている。彼がどこまで後者の傾向を受け入れているのか、全面的にそうしているのか、それとも、あくまで部分的なものでしかなく、ところどころでは、自身の美学的な選択と認知科学的な正解とが衝突し、自らの美意識を貫き通していたりするのだろうか。

 

文化庁の予算でフランスに滞在したときは、三島由紀夫についての講演をよくしたとkのこと。そこで、なぜ武士道と天皇主義が三島において同居するのか(武士道と天皇主義は相反するものではないのか)という質問を受けて、驚いたという。

それをきっかけにしてなのか、平野は、三島の武士道(または彼が想起する明治期の武士道)は、自己の良心を主軸に据える陽明学の系譜につらなるものであって、支配階級のイデオロギーであった朱子学の系譜につらなるものとは別のものだということに、考えをめぐらせていく。

 

この講演を聞いて感じたのは、平野はかなり自意識的に、明治期に誕生した「日本近代文学」の系譜を引き受けようとしているのかもしれないということだ。それは、グローバル化する世界のなかで「国民文学 national literature」の意義と可能性を真剣に考える立場であるとも言える。だから、現代的な倫理の主題、たとえば、セクシズムのような問題に取り組まなければならないと考えている一方で、資本主義や環境危機のような世界規模の問題を文学的に表現しようとすれば、何語で書こうかが、何人として書こうが、必然的に似たようなものになってしまうのではないかという懸念を表明していたのは、もっともなことだと思われた。

 

映画化についての話は、脱線というか付け足しのようなものだったけれど、平野によれば、映画化のオファーは来るが、企画のほとんどはどこかで頓挫するものだという。

映画化すると本は売れる。しかし、長編は映画に向いておらず、短編のほうが、映画監督が自由にふくらませる余地があるはずなのに、ビジネスとしては、すでに売れた長編しか映画化されないという矛盾があるそうだ。

小説家が口を出せる領域は、あまりないとのこと。脚本については、請われれば助言はするが、キャスティングについては、予算であるとか、予算に見合った収益を見込めるクラスの俳優は誰かとか、そもそも俳優のスケジュールは開いているのかという、実際的な制約がかなりの割合を占めているらしい。監督の意向もあるとのこと。

興味深いのは、平野が脚本家を勧めていたことだ。しかし、彼のイメージする脚本家は、純粋な書き手ではなく、さまざまな利害集団(原作者、監督、映画会社、芸能事務所)の圧力をうまくさばきつつ、自分のやりたいことをうまく忍び込ませるマネジメント能力に長けたエンジニアのような存在であるらしい。

 

などなど、ほかにもいろいろと言及されたネタはあるが、とりあえずこれぐらいにしておこう。

*1:と書きながら、キーンが柄谷行人の『日本近代文学の起源』をどう評価していたのかが、気になってきた。