うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

死に魅入られて、抗いながら:泉鏡花作、宮城聡演出『夜叉ケ池』

20220123@静岡芸術劇場

泉鏡花作、宮城聡演出『夜叉ケ池』

 

おそらくすべてはすでに死んでいるのだ。

宮城聰の演出する泉鏡花『夜叉ヶ池』は水の底から始まる。客席は明るく照らされているのに、舞台は暗い。

鳥たちの囀りが聞こえてくる。

次第に客席が暗闇に沈み、舞台がほのかに明るくなり、晃と百合が浮かび上がり、静かに、穏やかに、水の美しさをたたえる。

水音が劇場にこだまし、わたしたちも水底に沈んでいく。

水に充たされた世界で、すべてが終わったところから、劇は始まる。

舞台上方に、白黒映画にピッタリな古めかしい白地のフォントで、ト書きとセリフが浮かび上がる。役柄と出演者たちのクレジットがスクロールしていく。劇はまだ始まってもいないというのに、まるですでに物語の終わりに立ち会ったかのように。

 

『夜叉ヶ池』が描き出すのは、前近代的な神話的世界に迷い込んだ近代的知性の決意である。

柳田国男よろしく地方の民話収集に訪れたはずだった萩原晃は、その地の鐘撞の遺言を引き受け、都会での貴族の身分も将来もかなぐり捨てて、土地神との誓約――日に三度鐘を搗く――を引き継ぎ、その土地の娘である百合と夫婦になる。近代人としては、神との約束を信じているわけではないというのに、偶然の成り行きで引き受けた鐘撞としては、それを信じ、それに従って生きようとする。

神々は人に縛られている。

ひとたび約束が破られてしまえば神々は自由になれる。しかし、率先して破るのは不義理であるから、相手が破ってくれるのをひたすら待っている。だから、恋ゆえに誓約を破ろうとする夜叉ケ池の白雪を、御付きの従者たちは必至で押しとどめる。

皮肉にも、神と人のあいだで数百年にわたって維持されてきた契約的秩序を乱すのは、地元民たちである。

余所者の晃でもなければ、土地神の白雪でもなく、長く続く日照りをどうにかしようとして、かつて行われた人身御供を繰り返さんとする土地の人々だ。そこに政治家が便乗する。いや、政治家が先導=煽動する、と言うべきか。

 

泉鏡花の『夜叉ケ池』は近代の公理である功利主義の正当性を疑義に付す。

近隣集落の数千人の生活のために、一人の女を犠牲にするのは正しいことなのか。多数の生存のためなら、少数の尊厳は踏みにじられてもしかたのないことなのか。みんなのために、自分を犠牲に捧げるべきなのか。

晃も百合も、たくさんの他人のことよりも、自分ひとりの心を、自分が恋する相手たったひとりのしあわせを、大切にしようとする。ふたりは自身のエゴに、一瞬、たじろぐ。

しかし、すぐさま、たじろいた自分にふたりは抗う。

公のために私を殺す。もっともらしい議論ではある。

その議論を唱えるのは、この劇でもっともいかがわしい代議士の穴隈鉱蔵である。彼は美辞麗句を尽くして犠牲を正当化し、社会のなかで最も弱い立場にある人間をスケープゴートに仕立てあげる。お題目として公なるものを持ち出して、滅私奉公の仮面をひけらかしながら、私利私欲のために、他人の自由をぬけぬけと踏みにじる。自分が犠牲になる気はさらさらない。そのような無責任なたくらみに村人たちも加担する。神主も。教師も。

強いられた自己犠牲は、醜悪である。

宮城はこの群衆たちの愚かしい醜さを、衝動的な力に突き動かされる男たちの狂乱を、振り付けられた音楽劇として描き出す。ひとたび動き出したら止まることができない群集心理を具現化するかのように、村人たちはビート感の強いリズムを打ち鳴し、踊り狂い、集団的に自らを煽り立てる。

 

泉鏡花の『夜叉ケ池』には、イプセンの『人民の敵』のような社会劇の側面がある。公のために私を犠牲にすべきなのかという問いかけだ。しかし、心中の美にスポットライトをあてる宮城の演出は、そのような批判的なモメントを、甘美な死のなかに融解させてしまう。

鎌を振りかざす晃たちが追いつめられるなか、暴力に充ちた場を収めようと、百合は自ら命を絶つ。他人のために、その場のみんなのために、自己を犠牲にするのは、彼女だけである(白雪もまた、自らの恋をあきらめるが、それは百合の子守歌を聞いたからであり、その意味では、本劇の犠牲精神の中心は依然として百合にある)。

それを目の当たりにした晃は、もはや丑三つに搗くべき鐘を搗かぬことにする。誓約は、生者のためではなく、すでに亡き者のために破られる。

村人たちは水に呑みこまれ、凍りつく。

舞台後方がせり上がり、神々たちが歓喜のうちに太鼓を打ち鳴らす。

舞台中央では、鎌で首を切った晃が、息絶えた百合と重なり合う。血まみれのふたりに温かみのある光が注がれ、舞台全体が暗闇に沈んでいく。

 

宮城=鏡花は、愛の死に魅せられ、死者の抱擁のなかで陶酔する。

なるほど、活人画と化した舞台の外に立つ学円——萩原の学友にして京都大学の教授である彼は、この劇におけるもうひとりの近代的知識人である――は、そうした耽溺を中和する存在ではある。しかし、彼は都会からの旅人であり、立ち去っていく存在にほかならない。水に沈んだこの地に残り続けるのは、死者である百合と晃のほうである。

もし近代劇が神を殺すものであり、神なき世界だからこその問題を上演するであるとしたら、鏡花の『夜叉ケ池』は退行的である。パトリス・シェローは、リヒャルト・ワーグナーの『指環』の神話的世界を19世紀のブルジョワ社会に読み替え、神々の黄昏を神の世から人の世への移行として、匿名的な労働者集団の自立のモメントとして描き出してみせたが、宮城=鏡花は、近代的な開発の波が押し寄せてきた自然豊かな田舎が、人々の過ちにゆえに、神々の力によって滅ぼされ、神代の秩序に遡行していくところを演劇化する。そして宮城は、再帰する神話的世界の中心に、人の死の美を映し出す。

生ではなく、死に魅入られた世界が舞台を支配している。まるで死を経由することでしか、絶対に至ることはできないとでもいうかのように。悲観的で、諦念的、しかし、同時に、暗い希望を秘めてもいる世界。というのも、死すべき存在である人間には、誰にも等しく開かれている可能性だから。だからこそ、最後に異常なほどに長いあいだ、カーテンコールのあいだでさえも、演出は、百合と晃に、舞台の上で死を演じ続けることを求めたのだろう。ふたりは死において永遠に結ばれるのであり、死ぬことで、重なり合うふたりの肉体が絶対的な美として完成されるかのように。

 

しかし、はたしてそれでよいのか。

心中を美的なものに昇華すること、それは、泉鏡花が歌舞伎や浄瑠璃の美学を引き受けていたこと、理性の光ではなく情念の炎に言葉を与えようとしたことの証であり、宮城の演出はそのような前近代的な日本的感性、西欧近代との全面的な対決を経由する前の日本的なものを、神なき現代において、アナクロニズムやノスタルジーとして受け取られることも辞さずに、リプレイしてみせたと言っていいかもしれない。

しかしそれはまさに、三島由紀夫が華々しく無残に敗北したやり方ではなかっただろうか。

確信犯的に選び取られた、危うく、「弱い」方法ではある。

傷つきやすさ、はかなさ、脆さを抱擁するやり方ではある。

けれども、死を解決とする物語を超えたところに、生を始まりとする物語を想像し創造することにこそ、現代の舞台芸術の社会的使命があるのではないかとも思うのである。