うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

コロナ以後の演劇を再興する:『蜘蛛の糸』(作:芥川龍之介、演出:吉見亮)

20201004@やどりぎ座、『蜘蛛の糸』(作:芥川龍之介、演出:吉見亮)

コロナ禍が強いるものがどこまでこの舞台を縛っているのか、そして、強制されたものでしかなかったものがどこまで舞台のために役立てられているのか。吉見亮演出の『蜘蛛の糸』を見ながらそんなことを考えていた。

芥川龍之介の同名の短編小説の舞台化である『蜘蛛の糸』は、いわゆる演劇ではない。ここに対話らしい対話はないし、そもそも音声がほぼ先録りなのだ。導入の焦らし芸的な雑談と、劇中のひとつのセリフを除けば、音声面におけるライブ的な要素はゼロに近い。ライブの音楽はある。しかし、舞台中央にたたずむ布施安寿香のまとう、トーガのようでもあれば袈裟のようでもある衣装、彼女を舞台の両脇から宙づりにするかのような布のうえに投影される映像にしても、ライブの音楽にしても、布施の所作にしても、すでに確定しているナレーションの流れとシンクロすることを目指しているように見える。カラオケ的、音ゲー的な窮屈さやわざとらしさ。シンクロさせることが、どこまで打合せどおりにいけるかという減点法に引きずられているようにも見える。舞台の時間の流れが、舞台が始まる前からすでに決められてしまっているかのように。

これが密を避ける、舞台から客席に飛沫を飛ばさないという感染拡大予防対策から来ていることはまちがいないだろう。少なくとも、録音したナレーションを流す演出上の必然性はなかっただろうし、音楽をライブにする必然性も薄かったように思う。

その結果、舞台は、演劇というよりも、インスタレーションに接近する。3次元化された絵本、動画化された活人画、映像付きのオーディオブックと言ってみてもいいかもしれない。ノーカットで朗読される芥川のテクストが暗がりのなかで響きわたるなか、布施の衣装と肉体がスクリーンとなり、そこにアンビアンスな映像が投影される。極楽浄土における水の流れのような青、地獄の血の池の流れのような赤を浴びながら、身体のうえを流れていく映像のくすぐったさを堪えるかのように、布施の指先と顔だけが、映像のすきまから、妖艶さと清浄さの両方を神秘的にただよわせながらわずかに浮かび上がる。芥川の物語が、色やベクトルに変換され、ウネリのようなものに転化する。

布施の身体運動は、物語内容を補完するものではあるし、テクストの意味の表象ではある。しかし、それと同時に、物語にインスパイアされた別の何かであり、テクストを起源としながら、そこに従属しない。テクストがほのめかしながら、語りつくすことのない釈迦や犍陀多の心の機微の身体化であるかのような、ほとんど動かない動きが、テクストの隣に並び立ち、言葉を解体し、舞台の磁場の中心となる。よく聞こえてくる録音でも、よく見える映像でもなく、映像と録音というレースのカーテンのむこうから透けてくる身体のミクロなゆらぎのプレゼンスに、観客の注意が惹きつけられる。

舞台の前半が芥川のテクストを使ったインスタレーションであり、動かない動きを見つめるものであるとすれば、後半はStand by me(忌野清志郎バージョン?)をバックにしたコンテンポラリーダンスであり、動くことができない動きを感じることを求められる。音楽に合わせて布施が踊りだすと、ナレーションが最初から繰り返される。音楽と朗読が重なり合うなか、きたなくきれいな苦悶の表情をしぼりだすようにして、舞台に水平にわたされた布から抗うように身をよじらせ、身体を前後左右に投げ出す。不可能な努力が繰り広げられる。

芥川のテクストは、釈迦についても犍陀多についても、読者の道徳的反応を宙づりにするように書かれている。どちらにも理があり、どちらにも非がある。道徳的相対主義めいたところがある。だから「蜘蛛の糸」は、ひとりだけ助かろうとした犍陀多の身勝手さでもなく、そのような犍陀多の行為にたいして釈迦の感じた浅ましさでもなく、極楽の蓮池の「金色の蕊」からあふれる「何とも云えない好い匂」や「午に近くなった」時間という自然的なものにフレームが後退してしまうのだが、吉見の演出は、それとは逆に、人間的なところに深く入り込んでいく。

犍陀多は釈迦ではないが、釈迦は犍陀多でもあるのかもしれない。しなやかに伸び縮みする布は、鎖のような固い束縛ではない。しかし、蜘蛛の糸のように断ち切れることもない。犍陀多とは別の意味で釈迦もまた囚われの身であり、まさにそれゆえに、釈迦と犍陀多、極楽と地獄のあいだの圧倒的な垂直的上下関係が、水平的に折りたたまれ、重なり合う。たしかにそれは、釈迦が犍陀多に感じる一方的な連帯なのかもしれない。しかし、その苦悩が全身から発散される姿は、犍陀多を気まぐれに試した釈尊の心にあったのは、吉見が舞台の一部でもあればその前座でもあるMCのなかで述べたように、傲慢さではなく、迷いであったのかもしれない。誰が救われるのか、なぜ救われるのか、誰が救うのか。

それはコロナ禍においてきわめてアクチュアルな問いである。舞台がその問いに何らかの答えを与えていたとは思わない。しかしここには、それに応答しようとする努力が刻みこまれていたし、その努力はメタ的なところにまで及んでもいた。布施がプログラムノートで書いているように、「越境」は境界を意識することによって初めて可能になるものだ(すくなくとも自意識のレベルにおいてはそうだろう)。ここでは、舞台の上で言葉を喋ることがはばかられるという外在的な足枷が、自意識的に捉え返されることによって、自然主義を旨とする近代演劇というジャンルの根本的な問い直しへと繋がっていたといっていい。『蜘蛛の糸』がインスタレーションのようであり、コンテンポラリーダンスのようであったと言うことは、けっしてネガティヴな意味での批判ではない。

しかし、その一方で、布施と吉見が属するSPACの影も見え隠れしていた。戯作的なMCとシリアスな本編、前半の静=聖と後半の動=俗のコンビネーションは、宮城聰の演出の折衷――『マハーバーラタ』のような神話劇と、アングラ演劇の接ぎ木――を思わせるし、リズミックでパーカッシブな音楽から棚川寛子の音楽を想起しないほうが難しい(A-Frameという新発明の楽器は、複数人を必要とする棚川の音楽をひとりで奏するという離れ技を可能にしていたが、だからこそ、いっそう棚川の音楽を想起させる部分があった)。映像にしても、アンビアンスな幾何学模様はきわめてクリシェ的であるし、いい意味でチープなサイケデリックなSF的アニメーション――ピンボールのように壁で跳ね返る線としての蜘蛛の糸――は、前半の妖艶な神秘性とも、後半の肉感的な生々しさとも、微妙にかみ合っていない。蜘蛛の糸に群がる者たちを具象的な手で表現するのは、完全にズレているように思う。

しかし、この舞台でもっとも心をざわめかせた瞬間は、前半と後半のあいだに置かれた幕間だった。芥川のテクストが最後まで読み上げられ、客席がすこし明るくなり、舞台が終わったのかと思ったそのとき、布施が観客席をじっと見つめだす。それはひどく居心地の悪い反転だ。見つめられることなく見つめることができる特権的なところにいたはずの観客が、突如として、そのような安全地帯から運び去られる。観客もまた舞台の登場人物であり、脆弱な当事者であることが告げられる。だから、わたしたちは、犍陀多でもあれば釈迦でもある布施の苦悶する身体を、他人事として受け取ることができなくなる。

この強制的な巻き込みは、ジャンルの越境によって可能になったものだが、この否応なき連帯は、コロナウィルスがもたらしたものでもあるだろう。『蜘蛛の糸』は、コロナ禍がなければ生まれえなかった舞台かもしれない。しかし、それはあくまで、俳優、演出、振付(遠野綾香)、映像(竹澤朗)たちがコロナ禍を、否定的な制限、遵守するしかない規則としてだけではなく、肯定的な限界として、創造的なレベルでは克服可能な変異のための契機として捉えたからである。コロナ以前の世界において、リアルでライブなパフォーマンスをすることが弁明を必要としない自明なことであったとしたら、コロナ以後の世界におけるパフォーマンスは、おそらく、そのような自明性を問い直し、再定義し、越境するところから始めなければならないのかもしれない。『蜘蛛の糸』はそのような可能性の種子をたしかに芽吹かせていた。