20211219@舞台芸術公園「楕円堂」
「夜の影が 石となってかれのうえに落ちてきた」という言葉とともに、パフォーマーは上半身を弓なりに反らせ、手を突き上げ、まるでいま口にした詩行が現実のものとなってその身にのしかかってきたかのように、まるで言葉そのものの重みを受け止めるかのように、その体勢からさらに全身をひねるかのようにゆっくりと半回転する。楕円形の劇場の高い丸天井まで、青みを増した照明が暗く妖しく輝く。
怖れと畏れが同時に、しかし非相補的に、かきたてられる。退廃的なイマージュがそこかしこに散りばめられたミステリアスな詩句は、それ自体としては禍々しいものであり、聞き手を不安に陥れる。ところが、パフォーマーの身体を媒介にしてそうした不吉な言葉が具現化されると、まさにその表現行為によって、テクストの意味内容に由来しながら、そこには還元することのできない異質な情動が、わたしたちの身体に共鳴する。照明と音響がそのような共鳴作用を乱反射させ、いっそう複雑な連鎖反応を作り出していく。理解は追いつかない。感性の領域は氾濫状態になる。圧倒されてしまうが、まさにそれゆえに、惹き込まれてしまう。そこになにか畏れ多きものがある。退廃的な内容と、気高き表現とが、そのあいだには何の必然的関係もないというのに、にもかかわらず、必然としか言いようのないかたちで、ひとつに結ばれる。
宮城聰が演出し、美加里が演じる『夢と錯乱』は、カテゴリー化を拒む舞台だ。ベースとなるのはゲオルク・トラークルの同名の散文詩の朗読で、そこに身体が寄り添う。しかし、身体は言葉を具象化するために用いられるただの道具ではない。というよりも、字義的なレベルでさえ何が言われているのか決して定かではないトラークルのテクストは、きわめて象徴的であるばかりか、秘儀的でさえあり、単純な視覚化を拒むものである。照明にしても音響にしても、テクストに寄り添うものではあるが、テクストをわかりやすくするための装置ではない。トラークルのテクストがすべての核になっていることはまちがいないが、このパフォーマンスはテクストの忠実な解釈というよりも、テクストへの創作的な介入なのだろう。テクストをのっとるわけではないが、そこから派生する非テクスト的な余剰がある。
重低音の唸りがかすかに聞こえる暗闇のなか、ネイビーの三つ揃えに黄色と紺色のレジメントタイを締め、黒の編み上げブーツを履いて舞台中央に登場する美加里の顔の片側だけが強い光に照らし出される。だから逆側は闇に沈む。照明の作り出した仮面をかぶった彼女は、幼い少年のようでもあれば、老いた老人のようでもある。年齢も性別も撹乱される。言葉を語るために開かれた口のかたちが光のなかで浮かび上がり、顔の輪郭が際立つ。妖しげな官能性があるが、それはわたしたちを不安にさせるようなたぐいのものだ。肉感的でありながら、人工的でもある。すぐそこにいるはずの彼女が影絵のように見えてくる。
「おお、呪われた種族の」で始まる第3部だけ、スクリーンに映し出される詩句と、パフォーマーのパントマイムとのあいだに明確な分業がある。そこでは、大音量で流れる音楽をバックにパフォーマーが歩くことになるが、それ以外の箇所では言葉と身体のあいだに分断はなく、言葉をなぞるように身体が動く。わたしたちはパフォーマーの所作から、たとえば、「秋の塀」の存在を感じ、「司祭についていく」ところを見てとれる。
言葉はなめらかに語られることがない。とぎれとぎれに、一息ごとにポーズが置かれる。まるでセンテンスとしての意味ではなく、単語やフレーズのイマージュを、全体との非関係性のなかで断片的に浮かび上がらせようとするかのように。時折用いられたリアルタイムで声をエコーさせる装置も、音声を意味に回収させないための回路ではなかっただろうか。本物と聞き間違えるほどに巧みな動物の鳴き声の真似も、詩の描くものをリアルに表現するためというよりも、声の肌理それ自体を表出させるための演出手法であるように感じられた。明示的な意味にたいする方法論的な距離感は、抒情的な詠嘆をちりばめつつも一貫して三人称で自伝的内容を語るトラークルのテクストにたいする演出的応答だったのだろう。
しかし、圧巻だったのは、美加里の非ミメーシス的リアリズムとでも言いたくなる身体パフォーマンスだ。彼女が「野良猫を絞め殺した」とき、または、仰向けになって息も絶え絶えになるときの手足の動き、肉体の姿勢は、恐ろしいほどの真実味を帯びていたが、それは、わたしたちが実際に見聞きしたり自ら体験したりしたものと彼女の所作が似ているからではなく、わたしたちの想像力の白紙のページに彼女のパフォーマンスがイデアのように浮かび上がるからだろう。だからわたしたちは、そのようなイデア的なものをわたしたちのなかに現出させた彼女の演技を、虚構的なものであると知りながら、リアルなもの以上にリアルなものとして、わたしたちがこれまでに経験してきたもの、これから経験していくはずのものを選り分けるための範例として、受け入れてしまっているのだ。
麦のように見えるものを袋から床にぶちまけ、そのうえで身悶えるようにのたうちまわる第4部が全体のクライマックスをかたちづくる。言葉の密度が高まり、彼女の身体の情動が劇場に拡散し、それに巻き込まれたわたしたちをも共振させ、わたしたちの肉体をとおして、わたしたちの精神を別の次元に連れ去る。それは、テクストの破滅的な結末――「夜は 呪われた種族を飲み込んだ」――と相反するような、パフォーマンスとしてのエンディングであった。トラークルの詩がほのめかす情景は、滅びゆく家庭の部屋、うす暗い廃墟、死の影をはらんだ冬近い秋の自然だが、舞台で最後に残る音は走り去っていく自動車のノイズであったのは、この舞台がトラークルの詩的世界への没入を誘うものではなく、それを相対化するものであったことを、わたしたちにいまいちど伝えるためではなかっただろうか。
トラークルが文明から退場していく種族の没落を散文詩のかたちで三人称の自伝として語ってみせたとしたら、宮城聰と美加里は、そのような退廃の物語を異化しつつ反覆することで、その意味内容にもかかわらず、パフォーマンスとしての表象のほうを崇高なものに昇華させ、パフォーマーの身体の情動をわたしたちの身体に共振させたのだった。それは、暗きものを否定することなく受け取り、舞台という一時的な幻想の空間においてそれらをすべてありのままに、しかし、批判的な相対化をも行いながら提示することで、リアル以上にリアルな、虚構だからこそイデアであるものを、わたしたちへと送り届けるという演劇的な歓待と贈与の試みであった。だからこそこの上演は、終演後の舞台に顔写真が投影された故クロード・レジに捧げられるにふさわしいものであったはずである。