うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20240506 宮城聰演出、岡倉天心『白狐伝』@駿府城公園を観る。

20240506@駿府城公園 岡倉天心作、宮城聰演出『白狐伝』

岡倉天心が英語で書いた、上演されることのなかった遺稿のオペラ台本『白狐伝』は、何とも不思議なテクストだ。20世紀初頭の英語にしては、19世紀的な過剰に修辞的なスタイルであり、英語を母語としない話者が当時はおそらく必然的に抱えざるをえなかったのであろう遅れを如実に感じさせる。しかし、生前には発表されることなく1世紀以上が経った今、日本の古典的な題材——動物の恩返し――を、19世紀の確信に充ちた英語文体で表現してみせた岡倉のテクストは、予想外に上手に熟成し、後世だからこそありうる普遍性を獲得したようでもある。そのような反時代的=超時代的な契機をこそ、宮城聰とSPACは、アジア的でありながら日本的なものには回収できないような上演によって増幅させる。

岡倉のテクストでは、日本土着的な感性と、渡来的なものである仏教の倫理とが混ざり合っている。もしかすると、岡倉は、仏教的なものの勝利を描きたかったのかもしれない。エピグラフには「善行をとおして/高次の転生を求める/仏の慈悲にすがって」とある。しかし、宮城たちがこの三幕劇において前景化するのは、一幕における人間による狐の救出でもなければ、二幕の狐による報恩的なふるまいでもなく、三幕終わりで再会を果たす人間の夫婦の幸福でもない。自己犠牲によってそのようなハッピーエンドをもたらす白狐の身を切るような訴えかけである。

「下賤な獣を嘲る人々は/わたしのことをこんなふうに言うのでしょう/あいつは狐にすぎず、心をめぐらせることはなかった、と/人間は愛について何を知っているのでしょう/変わらぬ心、捧げる心、本当の自己犠牲を/数十倍、数万倍もわたしたちは感じているというのに/身を刺すような情熱を、狂おしい妬みを/五臓六腑に喰いつき、この身を引き裂くものを」

『白狐伝』の真の主役は、魔法の宝石をくわえた白狐を救う保名でもなければ、保名を愛する葛の葉でもなく、葛の葉に懸想する悪右衛門でもない。白狐のコハルであり、ある人間に救われた動物の、人間全般にたいする痛切な心情吐露、異議申し立てである。SPACの『白狐伝』は、そこを頂点とするように構成されていた。

しかし、もしかすると、そのような演出になったのは、公演の直前に急逝した葉山陽代の代役として、SPACの芸術総監督にして演出家の宮城聰が、白狐のスピーカーを務めたからだったのかもしれない。古典的な韻文というわけでもない日本語訳を、伝統芸能的な謡いの唄い回しで音声化してみせたスピーカーの宮城の渾身の技には、単純な技術を越えた凄味があったし、そのような鬼気迫る音声に応え、超自然的な狐の存在から、現世的な人間のたたずまいまでをも、コハルと葛の葉の一人二役を、言葉なき身体表現のみで応えてみせたムーバーの美加理の演技は、まちがいなく、この劇の特異点であった。

ただし、長らく演技からは遠ざかっていたのであろう宮城にしても、または、制作期間がさほど長くはなく、作品自体を十二分に練り上げるだけの時間を持ちえなかったのであろう俳優たちにしても、連日にわたる公演によって蓄積した疲労のせいなのか、舞台上では練度や精度の面で、微妙なバラつきがあった。

カカシのような人形二体を棒でつないで踊るムーバーたちのなかでは、良くも悪くも、渡名敬彦の操作が突出してニュアンスに富んでいた。悪者のムーバーである鬼島豪は、京劇役者のような豪奢な衣装と化粧を施した顔の華やかさを活かすためだろうか、非常に抑制された動かない演技によって、感情の揺れ幅の大きなスピーカー吉植壮一郎と見事に連動していたが、その一方で、女性のムーバーたちは、円舞としては男性陣より安定してまとまっていたものの、裏を返せば、突出したところのない安全策に甘んじてしまっていた部分がないとは言えないだろう。保名を演じるムーバーの大高浩一はベテランの確かな技量を感じさせたが、だからこそ、技が目立ちすぎたきらいもある。女声のスピーカーにしても、保名のスピーカーの若菜大輔にしても、確かな技術に裏打ちされたものではあったが、PAのせいなのか、連日の公演のせいなのか、万全の状態と言い切るわけにはいかない演技であったように思われる。

駿府城公園の舞台は難しいのだろう。有度に比べると、ここは圧倒的に広い。有度なら、舞台後方に生い茂る木々から、自然の力を借りることもできる。しかし、人工的に公園として整備されたここは、中途半端に自然を残しており、中途半端に人為的である。このどっちつかずの環境は、『白狐伝』にとって、かならずしも幸福とはいえない状況であったようである。

しかし、このような、純粋な自然とは言い難い人為的な自然である公園のなかでの公演だったからこそ、わたしたちは、自然のことに改めて思いをはせることを求められたのかもしれない。「見なさい、自然の永劫の自己犠牲を/与えに与えて、見返りを求めない」。この非対称な、非互恵的な贈与こそ、わたしたちが演劇から受け取るべきものなのかもしれない。

わたしたちはこの自然の贈与を、誰に、何に、どこに、贈るのだろうか。自分の幸福ではなく、他人の幸福のために自ら身を引く白狐コハルは、わたしたちに、そのような贈り物をめぐる問いを投げかけているように思われてならない。