20230506@駿府城公園 泉鏡花『天守物語』(演出:宮城聰)
前日行われた「伝統」についての広場トークで、宮城はたしか、「伝統とは歴史について語ることであり、歴史は死者について語ることである」というような趣旨の発言をしていた(わたしの記憶違いでなければ)。
物語はつねに、すでに起こってしまった出来事を語り直すものであるけれど、舞台はそれをふたたび出来事としてよみがえらせる。死者たちをもういちど(それどころか、上演のたびに何度も何度も)殺すのであり、死者たちにいまいちど死ぬ機会を与える。舞台は歴史を再演すると同時に、歴史が歴史として生起するところをわたしたちに目撃させるし、そうすることで、わたしたちは自分たちと死者たちの絆を思い知ることになる。
すでに知っている話が何度も繰り返されても飽きることがないのは、そのたびごとに、一回的な過去が、上演というまた別の一回性において立ち上がってくるからであり、同じものが同じ仕方で生起するにもかかわらず、まったく同じにはならないからなのだろう。
というようなことに思いをめぐらせながら観たわけではないけれど、いま、公演を思い出すようにしてこの文章を綴りながら、宮城の言葉がなぜか妙に生々しく思い出される。
舞台は執拗なまでにシンメトリーである。野外にしてはずいぶん小ぶりな正方形の舞台で繰り広げられる群舞的な冒頭は、あまりに均整がとれているので、ますます小さく見えてくる。
広場トークでの宮城の言葉によれば、『天守物語』は「二人一役が目的ではなく手段となった初めての作品」とのことだが、そのような方法論の発展形をさんざん見てきたあと、はじめてこの原点的なパフォーマンスを目にすると、いろいろと驚かされてしまう。たとえばここでは、スピーカーとムーバーのジェンダーが意図的に互い違いになるように配役されている。女性のムーバーには男性のスピーカーが付き、男性のムーバーには女性のスピーカーが付く。
『天守物語』には依然としてコロス的なものがない。劇のクライマックスをかたちづくるのは、妖怪の女と人間の男のダイアログである。そのことに気づいたとき、『マダム・ボルジア』はもしかすると、『天守物語』のバリエーションのようなものとして構想されていたのだろうかという感じがしてきた。ここには、宮城が後年進化させていくさまざまな種子が埋め込まれていた。
その一方で、まだ方法論として洗練され切っていないからこそ、二人一役の素の姿を垣間見ることができたような気がしている。自律するプラスアルファと、そんなふうに語ってみたくなる。
言葉と身体の「自然」なつながりを切断し、それを二人の別々の人間に割り振ることは、それぞれに、特化した専業だからこそ可能な集約性を実現させることであり、それらをさらに時間的に、空間的に共立させることで、相乗効果を生み出すようなものなのかと思っていたけれど、ここではむしろ、両者が相手の沈黙あいだに即興を繰り広げていくようなものなのかという気がしてきた。ムーバーがもっとも雄弁なのは、語りがないとき、または、自分の相手ではないスピーカーが語っているときであるようだ。それはまさに、言外のニュアンスを、言葉には依存しないかたちで、しかし、それでいて、言葉という準拠枠から逸脱しすぎないかたちで、表現してみせることなのかもしれない。
その点において、美加理の突出した異能は計り知れないものがある。鯉のぼりを思わせるようなガウンをまとった彼女は、それをまるで体の一部のように同化させるので、彼女の身体が衣装の輪郭とひとつになる。かと思うと、重心の高さを自在にコントロールしているからなのか、背が高くなったり低くなったりしているように錯覚させられる。ちょっとした手のしぐさ、顔の動きが、観る人の数だけの解釈を可能にするかのように、表情豊かでありながら、同時に、能面のような豊饒な無表情をみせる。
宮城の演出を見慣れている観客からすれば、驚くほどの豪華キャストだと思われたのではないか。主役の豊姫のムーバーが美加理で、そのスピーカーが阿部一徳なのだ。
しかし、後年の宮城に比べるといまだに生硬なところがある、シンメトリーな様式性の強いこの舞台は、現在のSPACが劇団として抱える問題を残酷なまでに浮き彫りにしていたのではないかという気もする。メソッドを練り上げるのは、パフォーマンスのクオリティを、突出した天才に依存することなく、コンスタントに作り上げていくためのプラグマティズムではないか。伝統芸能が継承されてきたのは、それが、自分たちの芸術を継承可能な技術に変換し、相続可能なものに仕立て上げることに成功したからではないか。宮城の二人一役というメソッドが、はたしてそのようなサステナビリティに至ったのかどうか。いつものSPACの舞台よりも平均年齢が高そうなこの舞台を観ながら、今後のSPACの先行きに要らぬ心配をしてしまう。
泉鏡花の書き方だと、妖怪はもうすこしおどろおどろしい感じで、逆に豊姫は、近代的自我を兼ね備えた人格という感じがするけれど、宮城の舞台ではそこがむしろ逆になっているというか、ひねりがある。妖怪たちはコミカルで、ケバケバしい。豊姫はずっとミステリアス。
ギリシア悲劇は、都市国家のある種の共同性を前提とした祝祭だったのではないか。そこでは共通と見なせなくもない祖先の死が演じられるからこそ、観客は上演されたものとの系譜を体感することができたのであり、それが共同体意識の身となり骨となったのだろう。しかしながら、宮城が上演する死者たちの物語には、そのようなつねにすでに存在している共同体への奉仕は存在しない。
なぜならこの物語は、オリジナルな場所(姫路城)にも、上演空間(駿府城公園)にも、どこにも属していないし、どこかに属することを意図的に避けている、しかし、そのように、具体的などこかに属しないことを選ぶことによって、世界中の空間のどこにでも、歴史上の時間のいつにでも、それどころか、この世ならざるいずれもの世界にも、観客のお気に召すままに、漂流していける遍在性を作り出すものだからである。