うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

死後の世界の救済、または現世の葛藤の永続という戦略的ジャポニズム:アヴィニョン法王庁前での『アンティゴネ』

20200503@くものうえせかい演劇祭

100分近くにおよぶ宮城聰演出のソポクレス『アンティゴネ』の2017年アヴィンニョン演劇祭のときの公演映像が描き出すのは、徹頭徹尾、死者の物語にほかならない。なるほど、ソホクレスの登場人物たちは生者であるし、舞台に立つのは生きた生身の俳優だ。生の音楽があり、生の空気がある。しかし、アヴィニョン法王庁の前の広場にしつらえられた巨大なステージにたたえられた水は、アケロン=三途の川であり、生と死の世界の境界であり、死後の世界に続く通路である。夜闇のなか、法王庁の巨大な壁に映し出される影絵は、日常のなかにある向こう側の世界に開かれた窓だ。すべては死者に捧げられた鎮魂の儀式であるかのようだ。

それはさまざまな文化的伝統を混ぜ合わせることでもある。ソポクレスの『アンティゴネ』は、ヘーゲルを始めとして、西欧文明のなかで繰り返し論じられてきたコアテクストだ。しかし宮城の『アンティゴネ』はそれを日本を中心とする東洋の文脈に移し替えていく。渡し守カロンは、袈裟をきた僧侶に置き換わる。精霊送りのために流される行燈は仏教的なものである。影絵はインドネシアの人形芝居を思わせる。カツラを配ったり、それをはめるシーンを見せたり、フーガやカノン的にコロスを担う地謡や、打楽器によるフィリップ・グラス的なミニマルミュージックを奏する音楽隊を舞台の見えるところに配置したりと、西欧演劇ならば隠すべき裏方を舞台の風景の一部に変える、浄瑠璃人形遣いの黒子たちのように。その一方で、俳優たちの衣装は意図的に無国籍でノンジェンダーであり、どこかSF的でもあれば、特撮映画風でもある。光を透過しながらも照明の色に染まるトーガのような薄衣と、幾何学文様のボディースーツ。俳優たちの足場は石庭のようでもあれば、灯篭のようでもあるし、ストーンヘンジのようなプリミティヴな力強さが充溢する儀式の空間のようでもある。

ここでの宮城の演出は、『マハーバーラタ』や『オセロー能』や『顕れ』と同一線上にあるものだが、劇自体にコミカルな要素がないから、全体のトーンはシリアスな厳粛さに振り切れている。前口上のドタバタをのぞくと、すべてが重苦しいほどに暗さを強調した作りになっている。野外ならではの自然の暗がりのなか、人工的な照明の光に照らされて浮かび上がる俳優の身体は、壁に大写しにされる影絵の効果もあって、ますます超自然的な彼岸の感触をかもしだす。宮城が他作品の演出でも用いている非自然主義的な対話のさせ方――俳優同士が、互いに向き合うことも、互いに歩み寄ることもなく、舞台のあちらこちらにポツンと置かれ、前を向いたまま、声だけの孤独なキャッチボールを続けていく――は、暗闇のなかで、その妖しさがいや増す。しかしだからこそ、ときおり浮かび上がる俳優の身体が幽玄な美となる。

全体の構成は番号オペラに近い。レシタティーボがアリアや重唱や合唱へと発展していく。それが宮城の代名詞的な演出法であるムーバーとスピーカーという二人一役とうまくマッチしているし、コロスという不特定多数の「民の声」をその本質的な構成要素に持つギリシャ悲劇は、宮城の演出の音楽的側面とうまくフィットする。そして、それぞれのナンバーが特定の主題をフォーカスする。冒頭のアンティゴネとイスメーヌの対話は弔いと服従の問題を、クレオンの演説は国家の論理を、クレオンとアンティゴネの対話は弔いの対象をめぐる人意と神意の問題を、照明の灯るなかで繰り広げられるクレオンとハイモンの対話は民の声に応えるべきか否かの問題を、政治における柔軟な妥協の必要性を。クレオンと盲目の予言者テイレシアスの対話は神意からの人意への反論を、というように。そしてこれらのアリアのあいだを埋めるのは、日本の民謡的音階にのっとった節回しと盆踊りである。言葉による対決ではなく、歌や踊りが、劇を稼働させていく。

しかし、だからこそ、SPACの看板俳優である美加理と阿部一徳の演技がひときわ際立つ。舞台前半の言葉なき間奏曲のなかのアンティゴネの身振りと、舞台後半に置かれた死出の旅を前にしたアンティゴネのアリアは、舞台中心の石舞台のうえでほとんどのあいだ動かない演技を続ける実加里の身体の存在感こそが、この舞台の要石であったことをはっきりと伝えているし、父の拙速さを諫めんとする息子ハイモンを激情のうちに退けたクレオンに降りかかるブーメラン的な自己成就の悲劇を「アァーーーーーー」という翻訳を超越した嘆きの音調だけで直感的に伝える阿部の声の存在感は突出している。

とはいえ、宮城の目論む演出プランが成功しているのを見せつけられるほどに、これがソポクレスの『アンティゴネ』でなければならない必然性があったのだろうかという気がしてくる。たしかにこの「死なばみな仏」という弔いの普遍性は、友と敵を峻別するカール・シュミット的な政治からは、現世的な利益のために使えるものはすべて動員するマキャベリ的な君主論からは、決して出てこない発想ではある。分断を深める21世紀の世界において何よりも必要とされている倫理であることも間違いない。ギリシャ悲劇を脱構築するために東洋的な別の情や理が要請されている。

しかしながら、宮城の『アンティゴネ』は情念的でありすぎるようにも思うし、この情念性は、ひねくれたミソジニー的女性原理――世界を救うために自分が犠牲となるブリュンヒルデ的な自己破滅的な他己救済――と地続きではないのかという疑いもわいてくる。コロスの男声と女声の異なった使用法、現状維持を旨とする国家の論理を補強する男たちの「理」的な自己正当化的な雄弁さと、血縁の分かち難さを嘆息する「情」にただよう自己防衛的にセンチメンタルな響きは、クレオンとハイモンのスピーカーの圧倒的な迫力――意図的に不自然な節回しや行またぎを、自然に響かせられるほどに、彼らのセリフは腹に落ちている――と比べるとどうしても押し出しが弱く、いかにも女っぽく響いてしまうアンティゴネとイスメーヌの情の細やかさとも相まって、どうにもバランスが悪いように聞こえる。ソホクレスのテクストにあるクイアなところ――男たちより男らしいアンティゴネ、女(のように)なることを怖れるクレオン――が、全体的に封じ込められてしまっているので、劇自体が男と女の対決のように見えてしまう。

それが宮城の意図したことなのか、俳優の疲労ゆえなのか(声のコンディションから察するに、俳優の状態はベストとは言いがたいようにも思う)、はたまた、映像ゆえのハンディなのかは、にわかには判別しがたい。チャールズ・アイヴズの交響曲4番がそうであるように、宮城の演出は、美的カオスの創造であり、舞台はカオスの表象=再創造=再現前であるからこそ、どこをカメラに収め、どのように音を捉えるかが決定的に重要になってくるのだが、ここでは音はあまり安定的に定位されているし、舞台を上から映し出す俯瞰的視線があるのはありがたいとはいえ、ムーバーとスピーカーのどちらを画面に入れるかで、撮影隊は苦戦しているように見える。きわめて逆説的ながら、この映像は、マルチメディア的である宮城演出のパッケージングの難しさを証明している。生の観劇体験のかけがえなさの証左となっている。

にもかかわらず、俳優がみな群衆のひとりとして鎮魂のための盆踊りを舞うとき、暗闇と静寂が舞台そのものとなるとき、わたしたちはたしかに、映像をとおして、宮城が作り出そうとした演劇空間を再体験してもいる。わたしたちの耳に夜の闇と水のさざめきが響き渡るとき、法王庁の広間の静けさが痛いほどに鳴り響くとき、わたしたちはともに、死者の救済を願う極致にいる。なるほど、それはあまりに死者の世界に引きずられた解釈であり、ギリシャ悲劇が問題化しようとした現世における解決不能な葛藤の問題があまりにあっさりと置き去りにされている感はある。あまりにあざといジャポニズムであるような気もする。海外の日本にたいする視線はステレオタイプを逆手に取り、それを美的に洗練させて投げ返したような戦略的オリエンタリズムを感じる。それに、死後においてすべてが救われるだろうと言うことは、この世の問題を棚上げにする無責任な態度ではないだろうか。その点は絶対に強調しておかなければならない。そうでなければ、死を美化することに、死者を英雄化することになってしまう。

カツラをつけることで現世から演劇的に作り上げられる死者の世界に入っていった俳優たちが、ふたたびそのカツラを外してこの世に戻ってくるとき、その「この世」は、舞台が始まる前に存在してた「この世」とは異なっているだろう。憎しみではなく、愛が頒け与えられる世界へと、わたしたちは連れ去られている。それは舞台の魔法が束の間のあいだ現出させた儚い願いでしかないものかもしれない。しかし、その連れ去られた愛の世界こそ、いまここでわたしたちが住まうべき世界なのである。

 

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