うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20240427 瀬戸山美咲演出、深沢七郎『楢山節考』@楕円堂を観る。

完全な闇のなか、祭りの太鼓のようでもあれば、死者を送る葬送の知らせでもあるかのような「ドン、ドン」という鈍い音が響き渡るなか、楕円の舞台上手からゆっくりと登場するふたりの此岸的身体の彼岸的な存在感を強調するかのように、光が注ぐ。全体的にくすんだ色合いではあるものの、さまざまな色合いの襤褸切れをパッチワークのように縫い付けた半纏は、日本的でありながら、日本的なものに回収されない余剰がある。リアルにはありえなさそうだと思わされるが、もしかしたらありえるのかもという気にもさせられる。

重心が重く低く、揺るぐことのない俳優たちの肉体と、仮想的に民俗的な衣装と、それらを妖しく照らし出す輝かしい光がどこかチグハグではないかと思っていると、四つん這いになった肉体が動物のように——いや、昆虫のようにと言おうか——、舞台前方にまで一気に迫ってくる。そして、そのような、人間的でありながら、人間以外の力をも表出させるような肉体を存分に反響させる力強い語りが舞台を稼働させていく。

深沢七郎による「楢山節考」は、端的にまとめれば、姥捨て物語であり、民話的なものであるように思えてしまうが、深沢はここから陳腐な教訓を引き出すことはない。食い扶持を減らすために、共同体の教えを実践するために、嬉々として山に入っていく「おりん」の静謐な美しい死と、往生際悪く生にしがみついて、とうとう谷底に投げ捨てられる「又やん」の無様な醜い死は、明確な対照をなしてはいるものの、前者が称えられ、後者が貶められているわけではない。70歳になった者に死を迫る共同体の倫理は、「そのようなもの」として提示されており、そこには、近代的な個人主義からの批判もなければ、前近代的な価値観——共同体の生存と安寧のために個人は犠牲を甘受する——からの擁護もない。ここにあるのは、冷徹なまでの観察と記述である。

演出家の瀬戸山美咲が手がけた上演台本はきわめて原作に忠実であった。尺の関係だろうか(上演時間は70分弱)、登場人物こそ、みずからの死出を待ち望む「おりん」(森尾舞)、その準備を見守り、彼女を背負って山に赴く「辰平」(西尾友樹)、辰平の後妻として、おりんに代わって今後家を切り盛りしていくことになるであろう「玉やん」(浜野まどか)に切り詰められているが、瀬戸山は深沢の「小説」をことさらに「戯曲」に仕立て上げることはせず、むしろ、キャラクターの内面に踏み込みすぎることのない深沢の乾いた筆致の字の文を、方言交じりの生き生きとした会話文と合わせて3人に朗読させることで、そして、そこに、チェロの胴を打楽器のように叩いたり、弦を強くはじいたり、弓で弾いたりと、楽器のポテンシャルを使い尽くす五十嵐あさかの音楽——彼女の奏でる旋律は、日本的というよりも、無国籍的な民謡であり、映画音楽的な描写性を備えていた——をバックボーンとして据えることで、この舞台を肉体的な朗読劇に仕立て上げていた。

ただし、それは、語られる言葉の内容を増幅させるようなかたちで肉体が用いられていたことを意味しない。むしろ、俳優たちは、突き放したような深沢の客観的な言葉に、ある意味でミスマッチな身体的親密さを伴わせていた。何度となく、俳優たちは、自身の体を相手に任せるだろう。たとえば、膝枕しているほうが、されているほうに体を傾ける。そのうえに、三人目が折り重なる。しかし、そこで増幅されていくのは、言葉の意味ではないし、登場人物同士の情でもない。きわめて濃密なかたちで、体重を預けるかのように接触するにもかかわらず、そこから、母と子のあいだの、夫婦のあいだの、義母と嫁のあいだの、あたらしく家族になった3人のあいだの情緒の交換が出現してくるわけではない。不思議なことに、親密な肉体的接触でありながら、それ以上でもそれ以下でもない、生きた身体の意味には回収されえない生々しい交流であり、だからこそ、いっそう異様な存在感を発散させていたのだった。

白骨の胸のなかに巣を作っているカラスたちを描写する深沢の言葉がそのような身体群によって朗読されると、おそろしく真に迫った感じがする。なるほど、それは、言葉だけで情景を鮮やかに出現させる俳優の卓越した技術によるものではあったけれど、同時に、俳優の身体が放出する膨大なエネルギーによって、辰平という虚構の人物がそのときに感じていたのかもしれない、言葉にならない怖れや畏れといった情動が、わたしたちにダイレクトに放出されていたからでもあった。その意味で、この舞台の軸をかたちづくっていたのは、辰平のセリフと字の文を引き受けた西尾友樹にほかならなかった。

玉やん役の浜野まどかは、原作的にも演出的にも、脇役的な存在ではあったけれど、この世にとどまりつづける存在としての確かな此岸性を失うことがなく、死に赴く準備が出来ているからこそ、あっけらかんとしたユーモアをただよわせたり、神々しいまでの静謐さをかもしだしたりする森尾と、生と死の往還を余儀なくされたからこそ、そのあいだで揺れ動き、情動を拡散させてしまう西尾とを、上手く舞台に引き留め続けていたと言えるだろう。

しかし、もっとも圧巻だったのは、森尾舞だ。死に場所にたどり着き、正座して合掌するおりんは、もはや語らぬ存在となる。そのとき、彼女の身体性がもっとも雄弁に語りだしたのだった。カラフルな半纏からくすんだ白い半纏に着替えているおりんは、いまや、まだ死んではないとしても、すでに生からは退いているが、その微妙な存在性を森尾は、神々しくありながら、同時に、あたかも彼女自身の身体が老婆のように縮んでしまったかのような、小さく慎ましい姿によって舞台に出現させていた。