うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20240503 オスターマイヤー演出、チェーホフ『かもめ』@静岡芸術劇場を観る。

舞台の上に臨時に設置された客席は、舞台中央を取り囲むように三方に配置されており、舞台後方には無地の白い布が下りている。その前に、さまざまなかたちの椅子が横一列に並んでいるが、舞台装置と呼べそうなのはそれだけだ。不穏さと物悲しさをかき立てるチェロの旋律に誘われるようにして、布の向こう側で、刷毛が薄墨色で線を描き出していく。たっぷりと絵の具がしたたっているのだろう、刷毛が動いたあとから、まるで小雨のような細い線がいくつも垂れていく。山の輪郭を描き出しているらしい。そのようなインスタレーション的な空気のなか、オスターマイヤー演出のチェーホフ『かもめ』は始まっていったのだった。

古典の現代的演出と呼べるパフォーマンスではある。舞台はアルプスに移されているようだし、上空を通過する飛行機の音らしきものが聞かれる。1幕の劇中劇は、初演時の1896年に「前衛」であった象徴主義的なものではなく、21世紀の観客にとって「新しい形式」(のキッチュ)に感じられるものに作り替えられている(ビニールの鹿にまたがり、ストッキングをかぶった男を背景に、襤褸クズのような長衣をまとった女が思わせぶりな言葉を語る)。カットもあれば、場の構成をいじっているような感じもする。現代的なドイツ語訳のおかげで——ただし、これはあくまで、その邦訳字幕からの印象だけれど――、語られる言葉は原文よりずっとアクチュアルなものになっているようではある。しかしながら、チェーホフが描き出そうとしたものにまで手を入れた形跡はないし、むしろ、これらの介入的リライトはすべて、『かもめ』にもともと備わっていたものを選択的に増幅させるための措置であったようである。すれ違う愛、一方通行的な愛という主題。

チェーホフ=オスターマイヤーの『かもめ』で浮上してくるのは、幸福を求める愛がつねに不幸に行き着いてしまうという悲喜劇だ。最初は上手くいっていたように見える愛もすべては座礁する。若き芸術家トレープレフは、俳優志望のニーナに愛を送り、ネグレクト気味の母アルカージナからの愛を求めるが、どちらも成就しない。売れっ子の中年作家トリゴーリンは、アルカージナとのあいだに相補的な愛が成立しているようにも見えたが、作家になるために犠牲にした若さを取り戻させてくれそうなニーナに愛を送り、ふたりは一時のあいだ関係を深め、そして破綻する。崇拝者を求める独我唯尊的なアルカージナは、愛されることだけを求めているかのようだ。ニーナの愛は、トレープレフからトリゴーリンに移っていくが、それによって彼女が充たされたのかはわからないままである。物語の舞台となるアルカージナの兄ソーリンの屋敷の管理人の妻は、夫には愛想をつかし、地元の医師を愛しているし、娘のマーシャはトレープレフへの片思いに絶望し、酒浸りになり、彼女のことを一方的に愛してくれる地元の教師と結婚して不幸になる。

たとえ双方向的になるとしても一時的なことにすぎない一方的な愛は、フィジカルに表象される。激しい接吻がさまざまなキャラクターのあいだで幾度となく繰り返されるし、あからさまに性行為を思わせるような肉体的な絡みもある。しかし、そこで表出するのは、エロスというよりも、その先に来ることになっている倦怠感である。生々しい接触はどこか乾いており、空しさをただよわせている。少なくとも、そのような愛を受け取らない側のしらけたムードが否応なく表面化している。

暴発する感情の攻撃的な応酬と、胸の内でくすぶっていた濃密な感情の静かな吐露によって、舞台は進行していく。いまだ何者でもない若きトレープレフは、恋人未満のニーナにたいしても、愛してくれない母であるアルカージナにたいしても、わがままに、子どものように、フラストレーションを爆発させ、彼女らに言い返されて、文字どおり身悶える。反対に、トリゴーリンは、作家として成功するために若さを犠牲にしたことを、切々と吐露する。

そのような男たちの自己憐憫のかたわらには、女たちの自己悲劇化がある。若さを誇る女優アルカージナは、甥であるトレープレフの身を案じて進言する兄のソーリンにたいして、女優としての地位を維持するために自己投資するので精一杯なのだと言い張るし、女優を目指すニーナは、敬愛するトリゴーリンの気を惹くことで、継母に虐げられる現状から脱出しようとする。

誰もが打算と本心の両方で動き、他者を手段と目的の両方で用いようとして、当然ながら、失敗していく。

オスターマイヤーはそのような試みのせわしない成否を、舞台上の落ち着かない出入りによって表現してみせる。俳優たちは、観客席のあいだの通路を行ったり来たりするが、そのような動きが、キャラクターの揺れ動く心の内の具現化になっていたのであり、だからこそ、ややもすれば独りよがりなキャラクターたちの心情吐露のひとつひとつが、生々しい現実性を醸し出していたのだろう。

もうひとつ指摘しておくべきは、観客を舞台に取り込みながら、取り込みすぎないその手つきである。1幕の劇中劇で観客にハミングを求めたことを別にすれば、観客が劇に参加することを求められるシーンはごくわずかであった。おおむね、舞台は舞台上の出来事として進行しており、観客はそれを眺めるというかたちにはなっていた。第四の壁は間違いなく存在していた。にもかかわらず、最前列の席からは手が伸ばせば届きそうなほど近くにいる俳優たちは、舞台のなかの出来事が、観客席のほうと地続きであるように振る舞っていたし、だからこそ観客は、たんなる傍観者ではありながら、それ以上の存在としてこの劇の証人となることを常に求められていた。

にもかかわらず、劇に内容やキャラクターに感情移入しすぎることを妨げる仕組みもある。幕間には、チェーホフとも『かもめ』とも関係のなさそうなポップな英語の音楽がうるさいほどの大音量で鳴り響き、俳優たちが舞台を整えるための雑用をこなす。観客たちはこの劇が虚構の出来事であることを否応なく意識させられる。

このような強制的でありながら、控えめでもある参加要請があればこそ、観客は、『かもめ』を完全な部外者として、完全な第三者として消費することを禁じられながら、そこに安易な自己投影をすることもできず、批判的な中距離に踏みとどまるしかなかったのだった。

だからこそ、オスターマイヤーによる『かもめ』が、トレープレフの自殺を明らかにすることなく――チェーホフのテクストはそれを明らかにするようなエンディングになっている――、断ち切られるように、銃声と暗転によって幕切れとなったのは、必然的なことであったようにも思う。ここには円満なエンディングはありえないし、それどころか、解決しないプロットにとりあえずの終わりを与えることすら許されない。すべては未決のままに、すべてはアクチュアルなままに、残されなければならないのである。

チェーホフはもしかすると、そのような未決性を、19世紀後半から20世紀初頭におけるロシアの社会状況の必然的な帰結としてイメージしていたのかもしれない。しかしながら、オスターマイヤーは、それをいわば、人間社会の避けられない(しかしながら、避けるべきものではある)普遍的な運命として、21世紀の観客に提示して見せたのではないだろうか。それは陰鬱な問いではあるし、慰めのない終わりは無情すぎるようにも思う。

しかし、おそらく、21世紀を生きるわたしたちは、この過酷さを出発点として進んでいかなければならないのだ。オスターマイヤーはその意味で、始めるべきひとつの起点をわたしたちに示してくれていたように思う。