うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

狂気の約束を受け取った責任の行方:唐十郎、宮城聰演出『ふたりの女』

20220430@舞台芸術公園「有度」

唐十郎の『ふたりの女』は妄想の約束を受け取った責任をめぐる物語なのかもしれない。紫式部の『源氏物語』とチェーホフの「六号病棟」を本歌とするらしいこの戯曲は、ミイラ取りがミイラになるお話と言って差しつかえないだろう。精神病院に入院中の奇妙な女の言葉を受け取ってしまった医師は、その言葉に期せずして束縛されることになる。まるで神の宣託であったかのように。そして医師はますます狂気の領域に引きずられ、最後には、自ら病棟に収容されることを望むことになる。

ただ、唐十郎はそのような狂気と正気の往還を、筋書きとしてわかりやすく定式化しているわけではない。こう言ってみてもいい。『ふたりの女』では、誰に焦点を合わせたらいいのかがよくわからないのだ。おそらくオーソドックスな見方をするなら、女たちに翻弄される光源氏を中心に据えればいいところではある。しかし、彼はたしかに物語の中心ではあるが、翻弄される受動的な中心でもある。物語を稼働させるのは女たちのほうである。

その女たちは、実は、一人二役なのだ。光源氏を最初に狂気に惹きこむ六条御息所と、彼女の狂気にあてられた光源氏に翻弄されて命を落としてしまう葵上。この二人が一人の俳優によって演じられる。だから観客は、誰かひとりのキャラクターだけを追うわけにはいかない。キャラクターたちの関係をフォローするしかない。けれども、そこで見えてくるのは内面ではなく外面である。というのも、ここには、長ったらしい内的独白のようなものはないからである。

こうしてわたしたちは、外面的な身体性や発声、つまり、たしかに目に見え耳に聞こえるものを、当てにするように導かれていくのだけれど、そのような具現化されたものが真実を語っているのかどうかが、最後までわからない。最後になってもわからない。

訳が分からないうちに、わたしたちは、アオイを亡くし、ロクジョウと再会し、狂気にますます引きずりこまれていくヒカルを目撃することになる。彼が最後にロクジョウを絞め殺すとき、舞台後方の扉がすべて解き放たれる。吹き込む風がある。それはあたかも無意識の領域が全開になり、封じ込められていたものがあふれ出した瞬間だったのかもしれない。

とはいえ、この劇で無意識的な狂気は、ただ到来するだけのものではない。駐車場係の男は、狂ってしまった革命家の兄の看病のために足しげく病院を訪れる。もしヒカルが無意識ににじりよられて、挙げ句の果てには訳も分からぬまま女を絞め殺してしまうとすると、駐車場係の男は自らの意志の力によって兄に近づこうとする。すべてが狂気に侵食されていくなかで、彼だけが、自ら狂気に向きあいながら正気を保ちつづける。それはおそらく彼の正気が、狂気と対立するものではなく、狂気を突き抜けた先にあるものだから、狂気をも共感的に包み込むものだからだろう。

そのような駐車場係を演じ切っていた武石守正のプレゼンスは圧倒的だった。たとえ彼の出番はほんのわずかであったとしても。ロクジョウとアオイの二役を演じたたきいみきは、セリフの意味ではなく、セリフの情念を、言葉のアクセントや抑揚で表現しきっていたように思う。その一方でヒカルを演じた永井健一は、言葉の意味を誠実にフォローしすぎたのではないかという気もする。