うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

静かに終わらせる(しかし生のほうに向かって):宮城聰『ギルガメシュ叙事詩』

20220505@駿府城公園

4カ月近く経って何をいまさらという感じはするけれど、書き留めておく。

ギルガメシュ叙事詩』はアンチクライマックスな物語だ。前半は冒険活劇。シュメール都市国家ウルクの王ギルガメシュが主人公。野人エンキドゥとの格闘を経て固いホモソーシャルな友情で結ばれたふたりは、森の守り手フンババを退治する旅に出る。野外舞台いっぱいに広がって波のように揺れるカラフルで巨大なフンババとの戦闘シーンが前半のクライマックスだ。

しかし劇中盤を境にして物語は下降していく。エンキドゥは死ぬ。魂の半身ともいうべき友を亡くした王はますます死の恐怖にとらわれていく。だから彼は死を征服するために死を司る者たちに会いに行く。冥界下りになるのだが、ここには前半のような派手なアクションはない。後半は人形師の操る人形たちが語る洪水譚であり、ほとんどインスタレーション的と言いたくなるような静かな静かな舞台。

勝利には終わらない。若返りの草を手に入れたギルガメシュではあったが、死から生の世界に戻っていく帰り道のさなかで、それを蛇にかすめ取られてしまう。死はふたたび克服不可能なものになる。そしてギルガメシュは自分の街に戻ってくる。彼は街の人々に呼びかける。そこで劇は終わる。ギルガメシュの「おぉーい」という声が野外舞台の闇と光のなかに虚ろに溶けていく。

 

祝祭的な昇華をもって幕切れとするのが宮城聰のトレードマークだったはずだ。『マハーバーラタ』や『イナバとナバホの白兎』は歓喜フォルティッシモのなかで終わる。鎮魂の物語である『アンティゴネー』や『オセロー』は厳かなレクイエムのように終わるが、それでも幕切れ前にはスペクタクルなカタルシスがある。しかし、『ギルガメシュ』はそのどちらの路線とも違う。

意図的に仕組まれた肩透かしがある。観客の無意識的な期待を裏切るという意味で、慣習的な既定路線に逆張りするという意味で、作り手にとって大きな冒険であるにちがいない。チャイコフスキーにしても、マーラーにしても、あのようなかたちで最後の交響曲を終わらせるのはどれほどの勇気を必要としたことだろう。宮城が『ギルガメシュ』で挑んだのはそのような困難さだ。ピアニッシモで終わらせること、しかし、チャイコフスキーマーラーのように、ほとんど息絶えるように、死に沈みこんでいくようにではなく、死から生のほうにいまいちど帰還するようなトーンで終わらせること(たとえいずれは死のほうに戻っていかなければならないとしても)。


宮城は『ギルガメシュ』において口承性を強く意識していたと述べている。『ギルガメシュ』のテクスト自体がそのような性質を強く帯びているのだ。同じ出来事が何度も語られる。反復は口承文学にとって必然の様式なのである。繰り返しは、物語展開という意味では冗長で、無意味でさえある。ではなぜ口承文化では反復がマストなのか。それは同じことを何度も語ったり聞いたりすることが、それ自体として愉しいものだからである。同じ話を何度も聞きたがる子どものように。それは、同じ所作を同じように繰り返すことが喜劇の常套句であることとパラレルかもしれない。反復には不思議な効果がある。

 

しかし、声だけの語りや音楽であれば、反復をスタイルに昇華することもできるが、まざまな要素が複雑に絡み合う演劇の舞台ともなると、ただ単に反復することはできないだろう。それは単なる反復であり、単に冗長なだけだ。だからここで反復されるのは、物語のシーンではなく、語りのほうである。

同じセリフが反復されるが、同じように反復されるのではない。反復が変奏にシフトする。たとえば、コロスが「深淵」という言葉を何度も発生するとき、単語は個々の音――し、ん、え、ん——に分解され、その順序すら撹乱され、もはや何という単語が発声されているのかがわからなくなってくる。意味が純粋な音になり、意味のくびきから解き放たれ、音それ自体が作り出せるかもしれない快楽の領域に拡散していく。

 

それでも、演劇はオペラではない。どれほど音をまとわせようと、どれほど意図的に近代演劇から捨象された歌や踊りを取り戻そうとしたところで、演劇は純粋な音としては自律しないだろう(少なくともそのようなことを念頭に置いて書かれたパフォーマンスでもないかぎりは)。演劇は意味の次元を完全に置き去りにすることはできない。

だからここには不可避的な妥協がある。コロスの朗誦は、意味をケアしなくてもかまわないような音楽に接近しながらも、かならずどこかで意味をケアしないわけにはいかない演劇の要請に引き戻される。意味の解体が大胆な演出として仕組まれてはいるけれども、同時に、意味の完全な解体を受け入れるわけにはいかないという苦境がある。その結果、ややもすると中途半端な音楽=言葉が出現することになる。

これは基本的にコロスの問題ではあるが、個々のスピーカーにも当てはまることだ。というよりも、口承的な叙事詩でこそあれ、戯曲ではない『ギルガメシュ』を演劇にアダプテーションするとなれば、地の文と会話文をどのように処理するのかという問題が持ち上がってくる。吟遊詩人ならすべてをひとりで語ってしまうところかもしれないが、ひとり芝居ではない演劇である以上、そこを複数に分割しないわけにはいかない。直接話法のセリフをキャラクターの声とするのは妥当な判断だろう。しかし、それらをつなぐ地の文をどうするのかという点で、宮城の演出は中途半端であったように思う。

ムーバーとスピーカーの分業という宮城のいつもの手法を活かすとなれば、キャラクターのセリフを特定のスピーカーに割り振るのは当然ではある。ギルガメシュのムーバーにはギルガメシュのスピーカーがおり、その相棒であるエンキドゥのムーバーにはエンキドゥのスピーカーがいるというように、ムーバーとスピーカーのあいだには一対一の呼応関係がある。しかしだからこそ、「とギルガメシュアは言った」のような地の文を誰が担当するのかが、難しい箇所として残る。そこで宮城はもしかするともっとも安易な解決策を選んでしまったのではないか。「と誰々が言った」的な地の文は、地の文を専任とするスピーカーではなく、「誰々」のスピーカーが受け持っていた。こうして、ムーバーはある特定のキャラクターを専任で演じるというのに、スピーカーの方はキャラクターの声と地の文を往還しなければなくなるし、スピーカーはある程度は流動的にコロスの声にも参加する関係上、スピーカーの負担が大きすぎたというか、スピーカーが単独ではカバーしづらい複数の次元——地の文という枠組み的な抽象的な声、キャラクターの会話文という特定の具体的な声、コロスという不特定多数の声——を受け持つことになってしまっていたのではないか。

とはいえ、複数のスピーカーが地の文を同時に引き受けたことで、ユニゾン的な音響効果が生まれていたとも言える。音程の違う男声と女声が組み合わさることで、言葉に厚みが生まれる。語りの内容だけではなく、語り方それ自体に面白味が生まれてくる。これはきわめて面白い試みであったし、成功していたと思う。


演技そのものがどこまで反復的であったかはもはや記憶が定かではないが、きわめて様式的なものであったことはまちがいない。とはいえ、様式的といっても、既存の様式——歌舞伎であるとか、時代劇の殺陣であるとか、空手の型——をそのまま借用しているのではなさそうである。興味深いのは、さまざまな手法をミックスすることで生まれたであろうこの演技が、なにかの模倣であることが観客の興味を惹くようなかたちにはなっていなかった点だ。

オリジナルなき模倣であるように思われた。模倣の起源にある原型を探そうという探偵作業に向かわせるのではなく、さまざまな模倣のアセンブラージュである身体的なムーブメントそのものをそのまま愉しむことを求めるようなパフォーマンス。

しかし、だからといって、決して大味な演技ではなかった。今回は前から8列目真ん中で見ていたせいもあり、ムーバーたちの演技がその一挙手一投足にいたるまで、それどころか、表情のわずかな動きまでそれなりに見えたので、ギルガメシュ役の大高浩一の演技の繊細さにひじょうに感銘を受けた。表情はそこまで動かない。しかし、指先の伸ばし方、手足の固定の仕方があまりにも見事なので、そこから無数のニュアンスがあふれ出していた。これはもしかすると、固定された表情であるはずの能面が、さまざまな顔つきを見せるかのように感じられることがあるのと、同じような現象だったのかもしれない。

演技の様式感を強めていたのは、移動的スクリーンの効果的な使用のためでもあった。障子ぐらいの大きさのパネルが、さまざまな背景や小道具に化ける。半透明なものもあれば不透過のものもある。水場になるかと思えば、退場のための隠れ場所にもなるし、舞台後半では、箱舟が映し出されるスクリーンにもなるし、そのスクリーンに投影するための作業をするためのスペースにもなる。


動きがなくなっていく『ギルガメシュ』の後半がパフォーマンスとして持ちこたえられたのは、人形師の沢則行の超絶技巧の賜物であったことは、この舞台を観た誰もが納得するところだろう。けっして人間のように精巧な人形ではない。見るからに人形である。にもかかわらず、あまりにもその操作が見事なので、人形が船を漕ぐとき、そこに思わず人間的なものを見てしまうのだ。

後半が前半とかなり違ったテイストになっていたのは、前半が、ギルガメシュの壮麗な衣装——青い貫頭衣に、金色の渦巻模様が入ったベスト——にしても、エンキドゥの野人的な装い——トサカ頭に毛皮のようにふさふさした手——にしても、フンババの巨大さにしても、カラフルでスケールの大きなものであった。後半に出てくる人形たちはみな小柄で、色合いも控えめである。

ここにはちょとしたいたずらが仕込まれてもいた。台座の上に座っているウトナピシュティムを人形師の沢がずっと操作しているようなそぶりをしていたので、彼女もまた人形なのかを思いきや、実はムーバーだったのだ(実を言うと、途中で何とも言えない違和感はあって、人形ではないのではないかと感じてはいたのだけれど、それでもやはり種明かしされたときは驚いたし、同じ日に見ていた知人は最後に全部あれで持っていかれたというようなニュアンスで語っていたので、あのいたずらが劇のためによかったのかという気はする)。


川を下って自分の街に戻ってきたギルガメシュが「おぉーい」と声を荒げずに叫ぶとき、彼はおそらく、舞台上に存在しているとされるウルクの街の住人に話しかけていたのだろうけれど、同時に、観客であるわたしたちにも呼びかけていたのだ。舞台上のスペクタクルの傍観者的観客でしかなかったわたしたちひとりひとりが、このきわめてアンチクライマックス的で静謐な幕切れにおいて、突如として、舞台上の匿名的キャラクターに変身する。

もし儀礼がその参加者を日常世界に送り戻すことによって完結するとしたら、『ギルガメシュ』はそれとは反対に、観客を物語世界のなかに取り込むことによって終わる。わたしたちはこの不意の呼びかけの消極的な強制力に不意打ちされて、身動きが取れなくなる。わたしたちもまた、ギルガメシュが甘受したのかもしれない死すべき運命を甘受しなければならないのだろうか。問いは開かれたまま残される。

幕切れは静かに力強い。野外舞台のなか、公園のもともとの構造が生かされている。すべてが闇に包まれるなか、石垣や木々が照らし出される。強すぎる光ではないが、きわめて印象的な光が、ギルガメシュを浮かび上がらせる。音楽はない。消えゆくような静けさだからこそ、生者の世界に戻ってきたギルガメシュの安堵と、死すべき運命を受け入れた彼の静謐な諦念が、染み入るようにわたしたちに感染する。否応のない肉体的な感動ではない。言葉にならない(しかし言葉にすることをおそらくどうしようもなく求めている)深く遅く鈍い情動がある。わたしたちは束の間のスペクタクルを越えて持ち越さねばならない問いを、気がつけば、受け取ってしまっている。