うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

Zoom in Trainingについてのまとまらないまとめ:天真五相についてのメモ

決してじっくり見ていたわけではないけれど、自分が演劇をやっているわけでもないのにわざわざ連日Zoom in Trainingを見ていたのはわりと珍しい部類に入る視聴者だったのではないかという気もするわけで、だからといってそれを自慢する気もなければ、ながら見をうしろめたく感じるつもりもないと言いたいところだが、はたして何をここから得たのだろうかと実利主義的な疑問が頭のなかに忍び入ってくると、昼の1時間を何週間も捧げたこのいいかげんなパフォーマンス体験と言っていいのかすら怪しいものをどうにかして正当化しなければいけないような強迫観念に駆られもして、たぶんそのように感じるのがそもそも間違いで、べつに何も得ることはなかったとただそう言い切ってしまえばそれでいいのだという気になろうとするも、やはりそう言ってすませられないのが性分というもので、だからこうしてダラダラすべてのまとめのような感想文を書き綴ってみようとするのだけれども、このだらりとした文章それ自体もまた浪費の産物、誰にたいする誇示なのかもはやまったく定かではない誇示的消費、贈与ではあるのだろうけれどそれは誰かというよりはインターネットへの投壜通信というかたちをとったポトラッチのようなもの――というのも、だいたいほぼ一息で書いているのではあるけれど、かといって一瞬で書ききれるわけではないし、それなりに逡巡し、それなりに推敲し、時間と労力を費やしているからこそ、その時間も労力も何かもっと「有益」なことに使えたのではなかったという後悔も、やはり、ないわけではない――だから、たぶんこれはいつか自分の文章を読み返す未来の自分にたいするリマインダーのようなものだということにして、思うところを書き出しておくのもよかろうという気になってきたので、今日やっとなんとなく理解した天真五相について軽くまとめて締めくくりとしよう。

Zoomのマイク設定の問題もあるし、全員が一斉にやるというよりは、誰かがそれとなく呼吸を読んでみんなの先陣を切り、それが波紋のようにすみずみまで拡がっていく、音がこだまするように、時間差で響き合っていくようなものであるらしい天真五相は、Zoom in Trainingの最後に置かれた重要メニューでありながら、もっともミステリアスでもっとも意味不明なものに見えていたけれども、今日の宮城さんの説明でやっと、あれが、「あ、え、い、お、う」という母音5つのフェイズを経由するものであり、重心の移動操作や身体の動かされ方、世界との繋がり方や溶け合い方を一連の所作のなかのなかに詰め込んだものであることが、なんとなく理解できた。

「あ」で、天に伸び上がるように掲げられた両手をつうじてエネルギーが放出され、体は不安定なまでに吊り上げられる。

「え」で、カーテンを引き開けるように世界が開かれ、前方45度のあたりに手が戻ってくると、体は再び安定してくるようだ。

「い」で、竹のように全身がしなるとき、中心という概念は消失し、体全体がひとつのしなやかなムーブメント=状態に変容し、伸ばされた両手は後ろに反り返ったあと円運動で前に戻された手が捧げものをするようにふたたび持ち上げられる。

「お」で、水のうえに落としたインクが全体に拡がっていくように、すみずみまで拡がるときインクは稀薄になってしまったように見えるけれども、その絶対量は決して減ることはなく、にもかかわらず水のすべてと混ざり合い、みずからを遍在させるように、体を外に拡げるということにもまして、体のなかに世界を入れ、体を世界に溶け合わせるのだろう。

「う」で、はじまりに戻ってくる。 不格好な舞いのようなこの一連の所作の根底には、基本的な身体コントロールがあることは間違いない。体がすみずみまできちんと動かせるようになっていること、それが大前提である。

しかし、ここでコントロールすべきは、解剖学的な意味での身体――たとえば関節の可動域を広げる、柔軟さを高める、四肢を思い通りに伸ばしたり曲げたりする――だけではない。アントナン・アルトードゥルーズ=ガタリの言う「器官なき身体」ようなものも、ここには含まれている。身体構造を仮想的に作り直すこと、たとえば、右手と右足の動きをシンクロさせることは、右手を伸ばせば背中の筋肉も一緒に動くこととは、根本的に異なるムーブメントだ。

このような仮想の筋肉や関節や神経、仮想の連動や連繋をどうすれば無限に創造していけるか。それは器械体操的な発想を越えなければ、解剖学的な身体構造に仮想的なネットワークを重ね合わせていかなければ、決してたどりつけないところだろう。

そしてこのようなソリッドでフレキシブルな身体は、それだけで完結してはならず、世界に開かれ、世界と繋がり、世界を受け入れながら、世界に向かって自分を拡げることによって、みずからが世界(の一部)にならなければダメなのだけれど、このあたりにくると、どうにもオカルティックでスピリチュアルなニオイがしてくる。それはおそらく、前近代的な習俗や習慣が畏れ敬い、「近代」科学が真っ向から否定し、もしかすると「現代」科学がふたたび科学的に(しかし全面的にというわけではなく)肯定しようとしている超自然的なものが、ここで頭をもたげるからだろう。

自然のエレメントを愛し、情念のような生の人間的素材を美的に昇華しようとする宮城の演出からすれば、このような幽玄さがトレーニングというもっともベーシックなところにまで下りてきているのはよくわかるのではあるけれど、同時に、なかなかどうして胡散臭い感じもする。実際にやってみることと、ただ見ていることのちがいは、間違いなくあるだろう。それにZoomのようなメディアを媒介しているせいで、実際以上にスピリチュアルに聞こえる可能性も否定できない。しかし、オウム真理教をめぐる出来事が記憶の枠組み自体に決定的なインパクトを刻印した世代からすると、どうしても警戒して身構えてしまうところではある。

ともあれ、トレーニングを見ていて気づいたのは、器械体操的な意味で優れた身体を持っているほどに、「動かされる」ムーブメントを身につけることが難しくなるのだろう、という点だ。そのような俳優たちは、どうしても、動きすぎているように感じる。体が内から自由自在にコントロールされすぎている。けれども、宮城の求めるムーバーとは、まさに、動き動かされる身体なのだろう。

ムーバーとスピーカーとの連動は、それ自体が矛盾の産物である。スピーカーを率いる指揮者のようなものでもありながら、スピーカーの言葉に操られる人形のようなものなのだから。しかし、指揮者がオーケストラのなかで唯一楽器を演奏しない音楽家でありながら全音楽家に君臨する脆弱な権威であるように、ムーバーもまたどこか危うさを残した存在なのかもしれない。指揮者がその権威を自らの音楽的知識やオーケストラ全体を聞き取るという俯瞰的聴点から引き出せるのとはちがって、ムーバーは決してほかのパフォーマーたちの上に立ちはしないし、その権威の拠り所があるとすれば、それは舞台という空間の存在感、舞台世界という宇宙とのチャネリングにあるように思う。

というようなことをいろいろ書いてみたらさすがに疲れてきたので、なんともまとまらないまとめではあるけれど、これでZoom in Trainingの劇評と呼ぶのはためらわれるけれども、感想というにはあまりに力が入りすぎているこの奇怪な文章はここでおわりにしよう。