うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

Zoom in Training:「体重をできるだけ小さな球としてイメージする」

20200411@くものうえ演劇祭 

Zoom in Trainingは見世物として面白いものでもないが――まあ、そもそも見世物として意識されているものではないから、それは当然ではあるのだけれど――たまに入る宮城さんの解説が面白い。

「できるだけ小さな球として体重を体の真ん中、丹田のあたりにイメージし、その下がどこにあるのかを意識するのが第一段階で、それを上げ下げできるようにするのが第二段階」。

丹田を意識してとか、重心を意識してというのは、聞いたことがあるけれど、体の重さ全体をまず小さな球に置き換え、それをコントロールするというワンステップがとても面白いと思った。

たしかにそうしたインターフェースというか、中間項を入れることによって、捉えがたい全体性がはっきりとした輪郭を獲得し、たしかな存在感のある具体的なモノとして、操作可能な対象として意識のなかに浮上してくるのだろう。

身体感覚を拡張すること、それはつまり、意識を延長することであり、全身を意識下に収めるということなのだろうけれど、それはデジタルなようでいて、まったくアナログなものだと思う。

5とか7とか10とカウントしながら(このカウントを竹刀で床?と叩く音でとるのが何とも体育会系だと思うが、バシッという音自体はなかなか心地よい響きがある)体を上げ下げするとき、それ1秒ごとの上昇効果距離を完全に均等にするというよりは、自分の意識のなかで、体を空間の位相に確定し、距離を想起し、それを直感的に割っていくという行為に近いような印象を受けた。

ケーキを6等分するとき、分度器で角度を測るのではなく、目分量で6つに均等に切るような感じだろうか。それは60度ぴったりという数字的な正確さというよりは(もしかするとバレエだとそのような正確さを求めるのかもしれないが)、あるカタマリを好きな数に自由に分割するために必要な全体像を獲得するためのメソッドであるように思う。

だとすると、これはなかなか複雑なプロセスだ。一方において全体を見渡す俯瞰的な視点がいるし、他方において、体の隅々まで意識をつなげなければいけないし、ここでいう「つながり」は、かならずしも解剖学的な意味でのものではなく、むしろ創造的で仮想的なもの――たとえば腕と足を同時に動かして何らかの形を作る――なのだから。解剖学的な制限のなかで体を使うが、その使い方は、解剖学的なものによって限定されつつも、それによって決定はされていない。パントマイムのような動きをしながら、手とつま先を持ち上げるとき、そこには手の動きとつま先の動きが連動するが、その連動は、たとえば右手を持ちげると右肩の筋肉も動くというような意味での連動ではない。

ともあれ、これは身体を生業としない人間が見て面白いものではないので、もういちどは見ないような気がする。