うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

彼方から引かれ、彼方に惹かれ、しかしいまここにある:自律性と他律性のあいだのZoom in Training

20200428@くものうえせかい演劇祭

「状態をコントロールすること」がこのトレーニングの「秘中の秘」であると宮城は先日述べていたけれど、今日の説明を聞いていると、彼のいう「コントロール」は、わたしたちが普通考えるそれとは大きく違っているのだろということに気づかされる。

ここでいうコントロールは自律的なものではない。わたしだけがわたしの身体を動かす主体である状態ではない。そうではなく、外からやってくる力に自分の身体が動かされている状態をコントロールするという状態だ。

かなりトリッキー。

自分の身体をコントロールするという大前提は揺るがない。しかし自分の身体を動かす力は、自分の身体の外部から(も)やってくる。他人に動かされている、地平線の向こうから引っ張られているような、そんな状態だ。

仮想引力とでも言いたくなるような力が、ここでは想定されているらしい。そしてそれは、自分の身体を世界に開き、世界に繋げることでもあるし、そのような繋がりをも含めて、自分の身体をコントロール下に置くことでもある。自分の力と世界の力、自分を内から動かす力と自分を外から引く力の両方を、意識の領域に浮上させることである。

単なる自律性でもないし、単なる他律性でもない。外からくる力そのものをコントロールしようというのではなく、外からくる力が自分の身体におよぼす影響をまずしなやかに受け入れ、それを間接的にコントロールしようとする試みだ。それは自分の身体を積極的な受容体に変容させることでもあるだろう。

仮想引力に自らの身体を開くこと、それは不思議な一人相撲のようなものかもしれないけれど、そのスケールはとてつもなく遠大である。なぜなら、仮想される相手は、目の前にいるのではなく、「途方もなく遠いところにいる」のだから。

宮城のいう「世界」はおそらく、きわめて自然的なものであり、惑星的であると言っていいのかもしれない。地平線の彼方から延びてきている長い長い紐で引かれているような情景が想像されている。

しかし、それほどまでに彼方から引かれ、それほどまでに彼方に惹かれながらも、わたしの身体はいまここにしっかりとある。たぶんそういうことなのだろう。

 

最後のマイケル・ナイマンっぽいメロディアスなミニマルミュージックの途中でいきなり「タララララ・ラーラ、タララララ・ラーラ、ヘヤヤヤヤ・ヤーヤ、ヘヤヤヤヤ・ヤーヤ」というちょっとホラーな感じの上ずった女性の声が聞こえてくると、いつもビクッとしてしまう。知っているはずなのに、いつ聞いても不気味な感じがする。