うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

すでに生まれている子どもに応答するために:「わたしたちは何も変わらなかった」とは言わないために

20200425@くものうえせかい演劇祭

 

15分近くにわたるワジディ・ムアワッドの朗読は、最初から最後まで、必ずやって来るはずのコロナウィルス後の世界のことをめぐる断章的省察であるにもかかわらず、そこにはつねに陰鬱な蔭がつきまとっている。

コロナウィルスの感染拡大によってわたしたちがいま強いられているこの孤独な監禁の生活にいつか終わりがくることはまちがいない。しかし、ムアワッドがここでわたしたちの心をわしづかみにするような、痛々しいほどに切なく強い訴求力をもって提起するのは、世界が変わるかどうかということにもまして、この例外的状況にもかかわらずわたしたちは変わらないことを選ぶのかという問いである。

 

「犠牲」の問題が執拗に繰り返される。ベルイマンの『第7の封印』やタルコフスキーの『サクリファイス』といった映画作品への言及がある。そのなかでもとくに衝撃的なのは、コロンブス到来以前の重要文明のひとつであるペルー北部ラス・ジャマスのチムー族が、ペルー沿岸部を襲った大洪水にたいする捧げものとして150人の子どもを生け贄にした儀式を行っていたという考古学的発見だ。まさに共同体の未来のために、共同体にとってこのうえなく大切な子どもたちという未来を象徴する存在を犠牲に捧げたのだろう、という考古学者の発言を引用するムアワッドの表情には痛ましさがただよっているが、同時に、犠牲の悲劇的な美しさや高貴さを称揚しているようにも聞こえる。ムアワッドがゲシュタポにつかまって銃殺されんとする息子を目撃した父のことを語るとき、父のために押し黙ることを決めた息子の犠牲を無駄にしないために血に染まる息子の死体を目の当たりにしても口をつぐむことに決めた父のことを語るとき、崇高な悲劇的英雄が理想化されているようにも聞こえる。

しかし、そうではない。ムアワッドは続けて問う。「そして僕らは Et nous?」

 

「そして僕らは」というムアワッドの問いは、決して、「だから僕らも同じように犠牲を捧げるべきだ」という反射的な回答にはつながらない。なぜなら、わたしたちはまず、はたして誰が「みんな」のために進んで犠牲になるだろうか、と自問してみなければならないからだ。

犠牲はつねに、最大多数の最大幸福という功利主義的原理を内包している。しかしそれは、大きな善に献身することが普遍的に受け入れられているところでしか成立しない。誰もが犠牲として捧げられるのでなければ、犠牲から除外されている特権階層がいるところでは、犠牲はつまるところスケープゴートでしかないだろう。それは社会全体に降りかかる災厄を、社会的弱者である被抑圧階層の責任としてなすりつけ、すでに充分すぎるほどの差別に痛めつけられている人々にさらなる犠牲を強いることである。ここでは、犠牲を差し出す集団と、犠牲による利益を受け取る集団とが、決定的にズレている。

しかしこのズレこそ、ここ数十年のあいだ世界が追求してきたものにほかならない。ここ数十年の世界がわたしたちに信じ込ませようとしてきたものにほかならない。それをネオリベラリズムという名で呼ぶこともできるだろう。個人の幸福の絶対的な追求。公の幸福よりも私の幸福を優先するという比較論というよりも、公の幸福と私の幸福を天秤にかけない態度。公の不幸になるからといって私の幸福をあきらめはしないし、私の幸福が公の幸福になるからあえてそれを好むというわけではなく、ただひたすらに私一人のしあわせだけを無責任に追い求める態度。

ここから導かれるのは、「おまえが犠牲になれ(しかしおれは犠牲になりたくないし、絶対に誰かのために犠牲になどなってやらない)」という身勝手ではあるけれども、おそらく誰もが少なからず心の奥底では抱いているはずの気持ちだ。わたしたちはまったくこれっぽちも「互いに憐みを感じてはいない」と語気を強めるとき、ムアワッドは厳しく哀しい真実を語っている。わたしたちは自らに問いかけてみなければならない。果たしてわたしは世界の幸福のために自らを犠牲にする覚悟があるのかどうか、と。みんなが幸福であってくれるなら自分は不幸であってかまわないのかどうか、と。

 

ムアワッドがここでわたしたちに求めるのは、犠牲そのものというよりは、犠牲という言葉であり、そうした言葉によってもたらされる約束の力である。わたしの言葉は無力であるとムアワッドが告白するとき、それは同時に、彼の言葉の雄弁さが例証される瞬間でもある。ネオリベラリズムの自己中心的なヘドニズムは、物質的な安楽を絶対化し、返す刀で勇気や犠牲を切り捨てた。しかしながら、わたしたちが現在の苦境から感じる苦しさは、まさに、公共善を時代遅れなものとして葬り去った世界の負債である。わたしたちは「みんなのために」という言葉の約束を取り戻さなければならない。

わたしたちは根本から変わらなければならない。そうでなければ、いまこの状況のなかでも生まれ続けている新しい生命に恥じることのない返答をすることが、わたしたちにはできなくなってしまう。20年後の子どもたちに、わたしたちは、この封鎖の前後で人間は「何も変わらなかった」と堂々と公言できるのだろうか。制度は変わった、保健制度は充実し、素晴らしい芸術も生まれた、しかし、わたしたちは依然として自己の幸福のみを追求し続けている、と口にすることができるほどわたしたちは厚顔無恥な存在なのだろうか。

どこまでわたしたちは欺瞞的でありうるのか、とムアワッドは問う。もしわたしたちがいま根底からわたしたちを変容させるのでなければ、どうしてわたしたちはこれ以後高らかに普遍的人権のような高邁な思想を子どもたちに教えることができるのか、と。子どもたちにこれまでわたしたちが信じてきた、信じようとしてきた美辞麗句を皮肉なしに伝えていくためには、どうしてわたしたちは変わらないでいられるのか、と。

 

しかし、もしかすると、そこまで欺瞞的でありうるのではないだろうか、わたしたちは。アメリカであれ日本であれ、わたしたちの国のトップは、それほどまでに欺瞞的な身振りを日々繰り返し、それほどまでに欺瞞的な言葉を日々弄している。自己矛盾的であることを自己のアイデンティティとして受け入れているような人間に、ムアワッドの言葉は決して届かないのではないか。

だからこそわたしたちは行為のレベルではなく、言葉のレベルで、約束のレベルで、観念のレベルで、世界に闘いを挑まねばならないのだ。世界の感じ方や考え方を変えること、世界の想像力を変容させること。わたしたちは長く難しい闘いを続けていかなければならない。ムアワッドの絶望的なまでに孤独な朗読は、そのような希望を目指す連帯の呼び声である。