うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ふじのくに⇔せかい演劇祭2019、宮城聰演出、ヴィクトル・ユーゴー『マダム・ボルジア』

20190505@静岡市駿府城公園

ゴシップと/の真実、または明かすことのできない母の愛
かなり軽い調子の、チャラいほどにお気楽な調子で劇が始まる。ゴシップから始まる。ボルジア家の悪評についてのゴシップ、なによりルクレチアの性的放縦さについてのゴシップが、宮城の代名詞ともいうべき二人一役の手法で、コミカルに演じられる。ムーバーはカカシのような装いで、スピーカーは声音を変えて。 

そしてこのゴシップが、ルクレチアにたいするマイナス・イメージが、劇全体にまとわりつくことになる。最初に聞いてしまったゴシップに、ひやかし全開ではやしたてられるからこそ思わず下世話にも耳をそばだててしまったゴシップに、はじめに聞かされたせいでその後に聞くことすべての尺度となってしまうゴシップに、すべてが汚染される。 

ゴシップとしてゴシップを聞く、しかし、ゴシップしか知らない。それは、嘘を嘘とは知っていても、嘘の真実、本当の真実は知らない状態だ。そしていつのまにか、わたしたちは、最初に聞いたことがゴシップでしかなかったことを忘れてしまう。嘘の情報が、いつのまにか、プレーンな情報にすりかわり、まっとうな知識に成りあがってしまう。ルクレチア=悪女という不当な等式が自明となる。 

どうすればゴシップは否定されうるか。劇登場人物にたいしても、わたしたち観客にたいしても。それはきわめて現代的な主題だろう。SNSでのデマの拡散、ネット炎上の火消しの難しさを考えてみればいい。 

ゴシップから始まる劇は、ゴシップの真実の探求の劇になるだろう。しかし、それは同時に、真実がゴシップを覆すことの不可能性についての劇でもある。ゴシップは本人の否認によっては解決しない。それではまわりは納得しない。というよりも、ゴシップと真実は別のレベルで機能すると言うべきだろうか。ゴシップはエンターテーメントであり、真実はそうではない。つまらない真実がおもしろいゴシップに勝てるだろうか。 

厄介なのは、ゴシップのすべてが嘘ではないことだ。そこには幾ばくかのもっともらしさが含まれているから、多少は事実に立脚しているから、その発端にはなにかしらの真実があるからこそ、ゴシップは信じられうる。ボルジア家による毒殺や暗殺、ボルジア家における近親相姦が真実かどうかは、わからない。しかし、ルクレチアが子をもうけたことは真実である。子という否定できない証拠がある。しかしそのわずかな真実を、ルクレチアは公にすることができない。ゼンナロが彼女の実子であることを明らかにすれば、ゼンナロの生命が危機にさらされることになる。兄弟殺しを犯してまで彼の父を殺害したチェーザレなのだ、殺した弟の子どもが生き延びていると知ったら、それを見逃しはしないだろう。ゼンナロの命、それこそ、ルクレチアがなんとしても守りたいものであり、そのために、ゼンナロの素性は何としても隠され続けなければならない。ゼンナロ本人にたいしても、ゼンナロの周囲の人びとにたいしても。 

わたしたち観客は、このゴシップと真実をめぐるすべてを、あらかじめ知っている。少なくとも、知ることができるところにいる。わたしたちは母の葛藤を理解できるところにいる。わたしたちにとってルクレチアは近しい存在である。劇構造はわたしたちに彼女との自己同一化を促すだろう。 

ヴィクトル・ユゴーの戯曲の原題『リュクレース・ボルジア』から「リュクレース」(フランス語読み)が消え、「マダム(=夫人)」に置き換わっているのは示唆的だ。ユゴーの戯曲においては、「わたしはあなたの母なのです! je suis ta mère !」にむかって壮大なクレッシェンドが築かれ、すべての謎がその最後の一行で一挙にほどかれ、突如の幕切れとなる。『マダム・ボルジア』では、ルクレチア(イタリア語読みというより、ポルトガル語読みか?)が既婚であることが強調されている。既婚女性であることと、母であることは同じではない。しかし、ゴシップから『マダム・ボルジア』の物語世界に引き入れられるわたしたちは、彼女が、妻であると同時に母であることを知っている。『マダム・ボルジア』は母の物語である。 

こうして劇は、(観客の目には)明らかであるにもかかわらず(劇世界の住人には)明かされざる真実―ールクレチアはゼンナロの母である、ゼンナロはルクレチアの子である―ーをめぐって展開していく。

 

根源的物語、または起源を探す子

神話は起源を語り、物語は起源について語る。神話は起源から語り起こされ、物語は途中から始まって起源へと遡る。さまざまな宗教的テクストが天地創造から始まることも、世俗的物語が探偵小説的な構造を持っていることも、偶然ではないだろう。神話は起源を捏造=創出するが、そこに合理的な説明はない。起源の捏造=創出という意味では物語も同罪だが、物語はその行為を正当化するために説明を提供しようとする。 

アウエルバッハは『ミメーシス』の冒頭の章で旧約聖書ホメロスを比較しつつ、両者の描写方法の違いを指摘しているが、両者の起源にたいする態度の違いを指摘することも可能なはずだ。聖書は起源を提示するが、それを説明しない。「光あれ」と神が言えば、世界が誕生する。「なぜ」や「どのように」という問いを立てることは無意味である。重要なのは「ある」であって、「なる」ではない。『オデュッセイア』は出来事の渦中から始まり、起源にさかのぼり―ーなぜオデュッセウスはいま漂流しているのか、どのようにして彼は故郷を離れることになったのか、彼はいったい何者であるのか―ー最終的に起源に帰還する。オデュッセウスは故郷のイサカに戻るや、彼の留守中に妻のペネロペ―に言い寄り、館の財産を食い荒らした求婚者たちに復讐を企てる。みすぼらしい身なりで館に潜りこみ、持ち前の狡知をふるい、求婚者たちを皆殺しにし、旧来の秩序を回復させる。 

『マダム・ボルジア』は物語系列に属するだろう。しかし、ここで起源を問題にするのは、マダム・ボルジアではなく、もうひとりのボルジア家の人間であるゼンナロのほうだ。わたしの母親は誰なのか、わたしは何者なのか、と問うゼンナロのほうだ。 

もしオイディプス王の物語が根源的な物語であるとしたら、それはフロイトが考えたのとは別の理由だろう。欲望の原型――息子は父を殺し、母を娶りたいと欲望する―ーだからではなく、起源をめぐる原‐物語―ーわたしの父は誰なのか、わたしの母は誰なのか、わたしは何者なのか―ーだからではなかろうか。そして、この起源の探索が、悲劇的に終わらざるをえないことの警告―ーオイディプスはそうとは知らずに父を殺し、そうとは知らずに母を娶る―ーだからではなかろうか。 

『マダム・ボルジア』は息子の物語でもある。しかし、それは決して大団円にいたることはない。すべてはすれ違い、すべてが裏目に出る。まるで欲望することが罪であるかのように。まるで、過去を振り返ることが、致命的であるかのように。

 

例外の不可能性、または自縄自縛に陥る世俗世界

すべては裏目に出るだろう。それはオイディプスがすでに証明したことでもある。しかし、オイディプスの物語には神託という超越的な声があった。超人間的存在からの預言があった。ギリシャ神話の物語には、神意という絶対性―ー神的存在によって定められた人間の運命―ーと、人間の努力の無力さ―ー人間が何をしようと、神託は絶対に変えられない―ーという二重性がある。神は残酷な真実を人に告げる、告げられた人はそれを避けるためにあらゆる手をつくす、しかしその努力はすべて裏切られ、神の言った通りになる。神話は神が支配する世界だ。人間は神の人形にすぎない。 

『マダム・ボルジア』にそのような神的存在はいない。ユゴーにおいても、宮城においても、ボルジア家の人間の行動を縛るのは、人の言葉であり、自らの誓約である。ルクレチアに身内を殺された人間が投げつける呪詛の言葉、ルクレチアの発する復讐の誓い、ルクレチアがアルフォンソに投げかける要請の言葉、アルフォンソが自らの冠にかけて言う言葉、ゼンナロがアルフォンソに聞かせる自白、義兄弟のような関係のマフィオとゼンナロふたりの妥協案、ゼンナロがルクレチアに強要する要望。人が支配する世界だ。 

いや、その言い方は正確ではない。正確には、人の言葉、人の作り出した論理が人を支配する世界だ。ここにあるのは契約の理だ。言霊の力と言ってもいい。心のなかで願うことは罪ではない、しかし、ひとたび口にされるや、ひとたび言葉として誰かに聞かれるや、ひとたび誰かに与えられるや、それは、発話者でさえ取り消すことのできない絶対的なものとなる。たとえ無分別に発せられた言葉でも、たとえ感情に任せて飛び出た言葉でも、たとえ一時の衝動でしかなかった言葉でさえも、その後のすべてを縛ることになる。それは自縛的であると同時に、予告的でもある。まるで、わたしのまだ知らないわたしの未来をわたしの言葉がすでに知っているかのように。 

例外はありえない。語られた言葉のほうが優位にあるのだ、その言葉を語った者よりも。人は自らが作ったものの奴隷となる。それはつまり、人の世界が自縄自縛であること、人が有限の存在であること、人が倫理的な存在であること―ー言ってしまったことはなかったことにできないからこそ、言うことには責任がともなうし、言わないことを選ぶこともできたからこそ、言うことには倫理がともなう、というのもそれをしなければならなかった必然性は、それをなした人のうちにしか見出すことができないからだ――の証でもある。 

パトリス・シェローワーグナーの『ニーベルングの指環』を19世紀市民社会に翻案できたのは、不思議なことではない。『指環』の世界は神々の世界ではある。しかしそこでは、神的存在であるはずのウォータンすら、自らの契約に縛られ、契約によって神々の世界を崩壊させることになる。神ですら例外ではありえないし、例外を作り出すことはできない。神ですら自ら作り出した秩序‐法則から逃れることができない。 

悲劇が成立するには、最低でもふたつのことが必要になる。ひとつは、行動選択の自由があること(選択前の自由)。もうひとつは、選ばれたものは必然となり、引き返すことも取り消すこともできないこと(選択後の不自由)。だとすれば、喜劇とは選択後の自由のことであり、その意味で、喜劇は奇跡的なものでもある。例外を作り出すことであり、例外を許容することであるからだ。赦すことは、犯されたことをあたかも起こらなかったかのようにすることは、悲劇には許されていない。『ハムレット』でも『オセロー』でも『リア王』でも、悲劇の連鎖は止まらないし、止められない。エウリピデスにおいてギリシャ悲劇が堕落したと言われるのは、そこでは、デウス・エクス・マキナという超越的装置の介入によって、悲劇の不可避的な絶対性が破壊されるからだろう。『マダム・ボルジア』はこの意味で、アイスキュロスソフォクレス的であるように思う。ここでは、悲劇の最後の一押しを留める外部からの介入装置=救済案は訪れない。 

ゼンナロがルクレチアを刺したその瞬間に、劇の謎が明かされる。しかしそれは、解決というよりも断絶である。問題はほどかれるのではなく、バラバラに砕かれ、砕かれることによって霧散してしまうのだ。それは、母と子の心理的なエネルギーが、物理的に不毛な結果に終わってしまったことでもある。 

宮城の演出では、この最後の幕切れを、野外劇としてスペクタクル化しようとしていたのだろうか。ゼンナロがルクレチアを刺し殺すと、舞台の裏手の木々が不気味な赤い光に染まり、舞台は右手からの青い光に照らし出される。ルクレチアこそが探し求めていた母だと知ったゼンナロは、探し求めていた母をそうとは知らずに自らの手で刺し殺してしまったゼンナロは、ただ慟哭することしかできない。言葉にならない叫びを発し、叫びとともに生命がその身体から噴き出してしまったかのように、ゼンナロは倒れる。そして舞台に黄色い光が降り注ぎ、溶暗する。それはまるで、母と子の争いの異常さに、自然が感応したかのような光景でもあった。

 

心理劇と室内劇と野外劇

宮城の演出が駿府城公園というトポスを前提としていたことは、公式ウェブサイトに載っていたビデオでも言及されていた。しかし、正直なところを言えば、このユゴーの劇を野外でやる必然性があっただろうか。 

ユゴーの演劇はあまり知らないが――というより、ユゴーという19世紀の巨匠の全体像が実はよくわかっていないのだが、と自らの無知を告白しておくべきだろうが――この劇に限っていえば、言葉による心理劇であり、心情の機微を表象するのは、役者の身体というよりは、戯曲の言葉そのものである。騒々しいアクションは必要ない。言葉がすべてであり、役者の身体すら、言葉の補遺でしかないかのようだ。キャラクターの心理は言葉にされるかぎりにおいて表象可能であり、だからこそ、言葉という呪詛=予示がある。演技よりも重要なのは言葉のディクションである。 

極論すれば、この言語による純粋心理劇は、どこかラシーヌ的ですらあるように思う。ラシーヌ的というのが言いすぎであれば、室内楽的と言いかえてもいい。要するに、比較的小さな空間で、インティメートな雰囲気のなかで演じられるのが、もっとも効果的であるというたぐいの劇であるように思うのだ。登場人物たちの内面がどこまでも広く深くなっていくとしても、その外面化のためのスペクタクルは不必要である。野外劇が必ずスペクタクルを要求するというわけではないだろう。しかし、野外ステージで弦楽四重奏をやるのは、東京ドームでアンプラグドでやるのは、物理的な困難が伴う。音量の問題があるからだ。 

ユゴーの劇はある意味ではきわめて人工的で、人間的でもある。というのも、ここには自然的自然(ナチュラル・ネイチャー)がほとんど存在せず、人間的自然=人間性(ヒューマン・ネイチャー)だけがあるように見えるからだ。野外劇が自然の力を借りなければいけないということはないだろう。それはあまりにスピリチュアルめいた物言いだ。しかし、野外の利点を生かすには、作品自体が何らかのかたちで自然と自然につながる必要があるのではないか。もし作品にそのようなところがないとしたら、演出によって自然という外部と舞台という空間をつなげる必要があるのではないか。

そこがどこまでうまくいっていたか。

 

観客参加型、または翻案の不完全さ

舞台は二面に分かれており、喜劇=ゴシップと第一幕が手前(水の都)で演じられ、第二幕と第三幕は奥で演じられる。そして観客は劇の途中で移動を命じられる。その誘導を容易にするためでもあるのだろう、観客は5つのグループに分けられ、それぞれ三河だとか遠州だとかの国人だという設定を与えられる。それぞれの国を代表する登場人物がおり、彼らはルクレチアに敵対する武将たちである。 

しかしながら、観客と武将たちのあいだに、誘導するためという口実以上の関係が切り結ばれただろうか。結ばれていない。そしてここで、俳優たちは観客を誘導するあいだ、誘導係員と登場人物の両極を居心地悪そうに行き来していた、とつけ加えておかなければならないだろう。俳優によって差はあったし、登場人物のまま観客に相対している人もいれば、舞台の仮面が外れかかっている人もいた。どちらが正しいというのではないし、どちらがよかったかはわからない。ただ、はっきり言えるのは、物語の舞台が移動するのに合わせて観客を移動させるというアイディアが、劇の内在的な構造と深いところでは結びついてなかったということだ。このアイディアを成立させるには、観客が、誘導役の俳優にもっと深い思い入れを持たねばならないし、観客グループのそれぞれに割り当てられた国の住人であるという意識を植え付けねばならない。そうすることによってはじめて、観客は、国人として、国人の代表者がルクレチアを罠にはめ、罠にはめられるところと、深く関わり合うことができるようになるだろう。 

翻案が不十分だったのかもしれない。イタリア・ルネッサンスを戦国時代の日本に置きかるというのが当初の演出プランだったのかもしれないが、それはおそらくどこかで変更され、史上の日本ではない架空の日本に翻案するというプランが台頭してきたのだろうと思う。だから「日本」という言葉は注意深く避けられ、「ヒノモト」という婉曲的な言い回しが使われていたし――ルクレチアがいちど「日本」と口にしていたのが、その意味ではひじょうに不思議ではある――、「関白」というような職名は使われても、「本願寺」のような歴史的含意のありすぎる固有名詞はよりニュートラルな「石山寺」(だったか?)に置き換えられていた。 

ルクレチアやアルフォンソがヨーロッパ的な名前であるのに、武将たちが日本名であるというのは、やや奇妙に思われるが、プログラムに載っていた「ドニャ・ルクレチア」というポルトガル語的表記は、カタカナ語のキャラクターたちがポルトガルからの南蛮人である――または南蛮人と日本人の混血である?――可能性を示唆しているようでもあり、想像力をかきたてるものでもあった。ヨーロッパ人の名前を日本語化するのは、明治期における西洋文学の翻案における常套手段でもあるし、その意味では、きわめて伝統的な手法であったとも言える。

ビジュアル面における架空の日本化はかなり成功していた。俳優たちの装いはファイナルファンタジー的だったかもしれない。ゲームにおける日本的なもの、「着物」ではなく「キモノKimono」と言ってもいい。伝統的な着物ならありえそうにない意匠や小道具は、舞台に華やかさを添えていたし、もしかするとあれは正統的なカブキモノ的装いだったのだろうか。

とはいえ、そうしたビジュアルや名前の翻案が、劇の内的構造の次元にまで達していたかというと、どうだろうか。翻案の成功度は、分野によって、かなりばらつきがあったように思うし、こうした演出上の不手際がもたらしたのは、ルクレチアとゼンナロ以外の登場人物の脇役化である。アルフォンソを除けば、グベイタですら単なる狂言回しに留まっているし、それ以外の面子と主役級の人物たちの格差がありすぎた。この格差は、おそらく、ユゴー原作においてはそれほど問題にならないような気がするのだが――というのも、あれはつまるところ、プリマのオーラによって成立する劇という側面があるように思われるから――群集劇的なところや戯作的なところを意図的に増幅させようとしている宮城演出の場合、脇役の脇役化は、主役の相対的な肥大化につながり、全体のアンバランスさをもたらすだろう。

 

宮城演出はどこに向かうのか:個の物語か、群の物語か

宮城演出の二人一役は、逆説的ながら、個を再強化する。たしかにそこではひとりがふたりに分割され、個が複数化されるのだけれど、それは同時に、個のなかに複数のものが共存していること、個のなかで複数の流れがせめぎ合っていることの視覚化でもある。個は複数であるが、複数が個でもあるのだ。

ここ数年の宮城演出では、こうした複数的な個が一方にあり、他方には個的な複数性とでもいうべき群があった。『マハーバーラタ』にしても『顕れ』にしても、そこには、数人一組のチームがおり、それがギリシャ悲劇におけるコロスの役割を担っていた。なるほど、そこでは複数の人間の差異はほとんど消滅し、コロスとしてしか認識できないというような無名性、匿名性を作り出してはいたけれど、まさにそれゆえに、数人一組には群衆性が宿り、共同体の声を不完全ながら代弁することになっていたのだ。

 『マダム・ボルジア』に欠けていたのは、群衆の声であり、共同体の声ではないか。たしかに冒頭のゴシップのシーンがそのような声の導入ではあったのだけれど、それは導入以上のものに発展することがなかったと言っていいだろう。というのも、あの声を導入した武将たちは、三幕においては、群衆にも個にもなりきれない、どちらつかずの中間領域に宙づりにされてしまっていたのだから。

おそらく宮城はユゴーの劇から普遍的な物語を取り出そうとしたのだ。ある意味で宮城はそれに成功している。ボルジア家の物語は、オイディプス王的な象徴性を獲得していた。しかし、裏を返せば、この普遍的な母子の悲劇の物語が、ボルジア家の物語であるべき必然性などどこにもなかったということにもなる。もしかすると、同じことがラシーヌの演劇にも当てはまるのかもしれない。ラシーヌにしろユゴーにしろ、彼らが必要としていたのは、ギリシャ神話やイタリアルネッサンスの具体的なキャラクターではなく、ある特定の人間関係の祖型――義子を愛してしまった継母、不作為で愛すべき母を殺してしまう子――であり、ある特定のステレオタイプに該当する象徴的人物――高貴な家柄の貞淑な女、ファム・ファタール――ではなかっただろうか。

こうした普遍化によって切り落とされるのは、歴史的次元である。感情の論理を復権させようとする宮城がロマン主義に着目したのは筋が通っている。なぜユゴーであってイプセンではないのかの理由がそれだろう。宮城の劇において、劇的緊張感は、歴史的状況というシンギュラーなものではなく、人間的心理=真理のほうに引き寄せられ、いわば普遍的に人間的なものという次元においてほどかれることを期待されている。宮城が演出ノートのなかで「恋情」や「愛」という言葉=概念に言及しているのはよくわかる。彼はいわば人間に共通なものthe commonを経由することで、彼自身が世界や世界の人間とつながろうとしているし、そうすることで、観客を世界や世界の人間とつなげようとしているのだ。

 

マルチメディア性をどうするか

それをやるには、ユゴーの劇はあまりに好都合でありすぎた。

逆説的に聞こえるだろうか。しかし宮城の劇は、雑多なジャンルを純化することによって、雑多なものを昇華することによって、ある崇高さへと昇りつめていくものだと思う。そう考えると、ユゴーの劇には夾雑物が少なすぎた気がする。たしかに『マダム・ボルジア』の宴会のシーンはそうした夾雑物ではあったけれど、ユゴーの劇構造は、あのようなコメディー的な部分を演出によって悲劇的な部分に有機的に織り込むことを、あらかじめブロックしてしまっていたようにも思う。

どちらにせよ、こうした劇の場合、その成否は、演出による総合効果ではなく、俳優個人の力量に左右されることになるだろう。俳優の比重が高くなりすぎるのだ。そして、音楽劇である宮城演出において、劇のクライマックスは本来マルチメディア的であるべきものではなかったか。

『マダム・ボルジア』の音楽が、打楽器的な叩きつけるパルスではなく、アンビアンス的にただよう空気としての音を基調としていたのは、いろいろな意味で象徴的だったと思う。音楽は劇の基調を定め、観客の感じ方を誘導する。しかし『マダム・ボルジア』のクライマックスを形成するのは音楽ではなかった。というより、音楽が劇のクライマックスにたいしてどこか外在的なところにとどまっていたようにも思うのだ。クライマックスの導入であったし、クライマックスの後押しでもあったが、クライマックスそのものではなかったようにも思うのだ。ルクレチアとゼンナロの対決のシーンはほとんど音楽を拒んでいた。それはもちろん、作曲家の失点でもなければ、音楽隊の失点でもない。ただひたすらに、ユゴーの劇の言語優位性――身体なき声、声なき音、言葉の音の音楽――が、器楽音楽という伴奏を拒否していたせいだ。

ユゴーの劇は、つまるところ、共同体なき個人の心理劇である。それを宮城化した『マダム・ボルジア』には、ヘーゲル的な言い方をするなら、媒介が欠けていた。シンギュラーからユニバーサルへと一足飛びに飛躍してしまい、パーティキュラー=ジェネラルという類的カテゴリー――もっとシンプルに、ステレオタイプ的なもの、と言ってしまってもいい――を回避してしまっていたのではないか。特異な個人の物語が「じつは」普遍的な物語であるというのは、ありえないことではない。しかし、そう言ったとき、そこには、「自分は即自存在のままでつねにすでに普遍的である」という傲慢さが見え隠れするだろう。宮城演出がそうした傲慢さを増幅していたとは思わない。しかし、そうした個の孤絶化と、そのラディカルな転倒としての個の普遍化という、極端から極端に飛び移るような変転は、宮城が求めていた「きれいごと」の奪還にはつながらないのではないかという気がする。