うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

医者となろうと努めるすべての人々の連帯:アルベール・カミュ、宮崎嶺雄訳『ペスト』(新潮文庫、1969)

まったく、ペストというやつは、抽象と同様、単調であった。(132頁)

われわれはあたかも市民の半数が死滅させられる危険がないかのごとくふるまうべきではない、と。なぜなら、その場合には市民は実際そうなってしまうでしょうから。(76頁)

彼らに欠けているのは、つまり想像力です。彼らは決して災害の大きさに尺度を合わせることができない。(181頁)

今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。(245頁)

人は神によらずして聖者になりうるか――これが、今日僕の知っている唯一の具体的な問題だ。(379頁)

 

COVID-19がもたらした強いられた隔離的生のなかでカミュの『ペスト』を再読してみたものの――おそらく3度目か4度目の再読だ――、これが疫病についての小説なのか、それとも実存についての小説なのか、逆にわからなくなってきた。

この小説のアクチュアリティの要であり、また同時に今日からする不充分であるように思われるのは、街が外界から孤立しているが、外界は普通の生を営んでいるという点である。たしかに、ペストのなかにも「離れ島はない」(337頁)。しかし、たとえ基本的に脱出不可能であるとしても、ここでは、街の外という非感染地帯が設定されているのであり、だからこそ、この隔離的生が「流刑」を思わせるものとしても形象化されるのだろう。だからこそ、余所者であるランベールは街から脱出しようとしてあがくわけだが――そのくだりはどこかカフカを思わせる錯綜があるし、行政の無能さもまたカフカ的世界な不気味な官僚たちを想起させる――COVID-19がわたしたちに思い知らせたのは、そのような「外部」はもはやどこにも存在しないという現実ではないのかという気がしてくる。

これほどまでに人と物のグローバルな流通によって経済活動が機能している現代において、流れはつねに感染の伝播の危険性をそのうちにはらんでいる。ウィルスを運ぶのはネズミではなくわたしたち人間である。わたしたちは何かに、誰かに原因をなすりつけることはできない。というより、そのようなことをしてみたところで、問題の解決にはつながらないところに、感染問題の難しさがあると言うべきだろうか。原因の発見はつねに遅すぎるのであり、わたしたちには、根治を目指す道は最初からほとんど閉ざされている(または、根治療法が見つかるとしても、それは未来にたいするものでしかなく、過去の起源を遡及的に叩くことはできな、と言うべきだろう)。だからわたしたちは、ジリ貧の対症療法を採用するしかない。

しかし、その一方で、疫病にたいして人間にできることはあること――疫病それ自体にたいしてというよりも、疫病におかされたほかの人々のために、疫病の強いる状況を不可避の天災と受け入れないために――を、カミュの『ペスト』は示している。たしかに、「決定的な勝利の記録」(457頁)ではない。しかしこれは、完全な敗北の記録でもない。それはいわば、状況に立ち向かおうとする者がすべて、医者のような存在になること――医学知識を持つ者としての医者ではなく、苦しむ者をケアし、苦しみを取り除くことはできないとしても、その苦しみをともに生き抜こうとする共感する存在になること、たとえ無力に近い存在であるとしてもその無力さに絶望することのない精神の存在となること――についての物語である。

 

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疫病のなかでの実存 

ここで疫病と実存が絡み合っていることはまちがいない。どこからというのでもなく突発的に発生した疫病が、ある特殊なかたちの生を強いる。そこでどのような生が営まれるのか。営まれうるのか。営まれるべきなのか。 

現実、可能性、理想がせめぎ合う。そのようなせめぎ合いが、個々人の行動だけではなく、集団としての行動のレベルでも繰り広げられていく。個人的な倫理と公的な政治が、呼応したり反発したりしながら、しかるべき出口を求めて奮闘していく。フランス植民地のアルジェリア――アルジェリア出身のフランス人であるカミュは、裕福ではない白人階層に属していた――の港町オランで発生したペストは、外界から切り離された離れ小島のような様相を呈していく。カミュは隔離された集団の心理や経済を克明に描き出していく(たとえば108-10頁)。死に最も近い看護人や箱堀り人夫は、ペストのもたらした経済不況による多数の失業者のおかげで決して人員補給に事欠くことなかったというくだり(260-61頁)、疫病と貧困と生存についての容赦ない分析的記述は、圧巻である。

しかしそのなかで、ひとりひとりの利害がひとつにまとまることは決してない。ひとびとは異なった願望や思惑を胸に行動していくことになる。そこでは無私の献身と、私欲の勝手がともにあふれだす。医師のリウーは粛々と回診を続ける。婚約者のもとへ飛んでいきたいジャーナリストのランベールは、脱出を求めて奔走するが、最終的にはそのような私利を断念し、リウーとともに医療活動に従事していく。熱のこもった説教を続ける神父パヌルーもまた、ペストがもたらす無慈悲なまでに無差別な死に直面して、心変わりを体験することになる。神罰としてのペストという見方を退けるのである。ひたすら自らの営為に没入する者もいる。グランはフローベールよろしく小説の書き出しを何度も何度も書き直すだろう。しかしその一方で、ゴンザレスのように、外部とのイリーガルなやり取りで荒稼ぎをする輩もいる。コタールのように、かつての罪が一時的に帳消しとなるこの非常事態を歓迎する者もいる。そして、タルーという不可思議な傍観者的記録者がいる。

ここにはたしかに予言的な響きがある。いまの隔離的生を先取りして描写しているようなところが多々ある。その意味では、『ペスト』に登場する医師リウーとベケットの『ゴドーを待ちながら』を掛け合わせたかのような、朱戸アオ『リウーを待ちながら』は、さらに予言的である。強制的に隔離された都市、その内部で繰り広げられる絶望的な撤退戦、脱出しようとする人々とそれを禁じようとする封鎖された都市外部に形成される警備団。封鎖された都市出身者にたいする風評被害

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悪人ではなく聖者のように、そうでなければ医者のように

死という絶対に否定することのできない圧倒的な現実が苛酷なまでに描き出されていく。小説末尾に置かれたタルーの長話(363-78)は、物語全体をべつのかたちで語り直す小説内小説であると同時に、そこから独立した寓話でもある。

概念という安全なフィルターが引き剥がされた現実との出会いがもたらすショック――まったく「容疑者」らしくないちっぽけな哀れなひとりの男を「正義」の名もとに「裁判官」として裁くことのグロテスクさ――、それは、もしかすると、若気の至りとでも言うべき過剰な潔癖さなのかもしれないが、その真実に打たれてしまった者――「胸にあいた穴」(374頁)を抱える者――は、その体験を否定することも忘却することもできず、その恥かしさを振り払うように社会正義に没入してみたところで、それが贖われることはない。

そのような人間に唯一可能なのは、自らがそのような他者を死においやる立場に与しないこと、そのような社会構造に抗うことであり、それはつまり、「直接にしろ間接にしろ、いい理由からにしろ悪い理由からにしろ、人を死なせたり、死なせることを正当化したりする、いっさいのものを拒否しようと決心」(376頁)することであり、そのように生きることである。

ひとの罪深さ、それは、キリスト者のいうような原罪のせいでは断じてない。それは他人の死に加担することを余儀なくさせる社会構造の不可避的な効果なのだ、とタルーは言うかもしれない。そこでは生きることがつねにすでに恥ずべきことになりさがっているのだ、とタルーは言うかもしれない。そこから逃れようとすること以外に、道はないのだとタルーは言う。そのためにこそ、「明瞭に話し、明瞭に行動することにきめた」(378頁)とタルーは言う。

しかしそれは理性の存在になることではない。タルーが続けて言うように、それは共感を生きることであり、「神によらずして聖者になりうるか」(379頁)と問い続けることである。死の構造に加担する――明白な加害者としてであれ、暗黙の共犯者としてであれ――悪人ではなく、そこから離反する聖者となることである。

しかしながら、小説の主人公ともいうべきリウーが体現していくのは、そのどちらでもない、医師という第三の範疇である。犠牲者の側に与しながら、それでいて、死の構造それ自体に、正面から内側から抗い、それを変容させていこうという道である。*1

 

謎解きと物語のドラマ

カミュの物語運びはどこかゾラ的であるし、エンターテイメント的な仕掛けもある。正体を明かさぬ語り手が、ジャン・タルーという不可思議な傍観者の記録を引用するかたちで、物語は進んでいく*2

ドラマチックなムーブがある。物語はペストに罹患したネズミの死骸の発見から始まる。ゆっくりと転がり出した物語は、展開するほどに速度を増し、物語世界全体を巻き込んでいく。

大きな流れ――街全体に無差別に拡がって疫病は、無辜の子どもたちをも容赦なく殺していくだろう――のなかで、個の存在はますますちっぽけなものになっていくが、だからこそ、個の決意や決断の耀きや翳りはいっそう際立つ。個々の生が過酷な死の現実を前にして決断を迫られることになる。個人の倫理が剥き出しとなる。そこでは、自己犠牲的な高貴さも、自分勝手な卑俗さも、同じように、迫り出してくる。

 

抽象からは離れながら

カミュがここで描き出すのは、集団的苦境において人々が突如として高貴な存在になるというような希望的寓話ではないし、人々がみな愚鈍な存在に陥るというような悲観主義的寓話でもない。それは、言ってみれば、不条理な世界における実存である。たしかにそこに倫理は賭けられている。無意味な世界において、自らが為しうることの根源的な無意味さを知ったうえでなお、自らが有意味と信じる行為をひたすら成し続けること――それがカミュ自身が、一個人として、選び取った立場ではある。

ここで決定的な存在感を放つのは、逆説的ながら、存在が失われるときのことだ。臨終の情景である。それは真理という抽象的なものが、死という絶対的な現実のまえに圧倒される瞬間である。

「人の死ぬところを十分見たことがないんです。だから、真理の名において語ったりするんですよ。しかし、どんなつまらない田舎の牧師でも、ちゃんと教区の人々に接触して、臨終の人間の息の音を聞いたことのあるものなら、私と同じように考えますよ。その悲惨のすぐれたゆえんを証明しようとしたりする前に、まずその手当てをするでしょう」(184頁)

しかしそれはカミュにとって、それとはべつの絶対的なものである神に帰依することではない。問いかけるタルーと、それに応えようとするリウーは、ある意味では、カミュ自身の内部で展開されている対話なのかもしれない。神を信じないとしても、信じることそれ自体は問題として残り続ける。絶対的な神を信じないことは、何も信じないニヒリストではない。しかし、では、信じる対象の妥当さや真正さはどこにあるのか。信じる行為の妥当さや真正さはどこにあるのか。それにたいして、リウーは応える。「あるがままの被造世界と戦うことによって、真理への路上にあると信じているのだ」

(185頁)。

「君の言うとおりですよ、ランベール君、まったくそのとおりです。ですから、僕は、たとい何もののためにでも、君が今やろうとしていることから君を引きもどそうとは思いません。それは僕にも正しいこと、いいことだと思えるんです。しかし、それにしてもこれだけはぜひいっておきたいんですがね――今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです……一般にはどういうことか知りませんがね、しかし、僕の場合には、つまり自分の職務を果すことだと心得ています」(245頁)

そのような誠実な自己信頼の態度が、ベストのように周囲に感染していく。ペストの蔓延に対処するための救護隊が編成され、そこにタルーもランベールも加わっていく。しかしそれは、そのような医療隊に加わることが「正しい」からでもなければ、自己利益よりも優先されるべきだからでもない。それこそが「誠実」な行為であるとリウーが信じることができるからである。それは「ひとそれぞれの正しさ」というような相対主義を越えるべつの地平であり、ランベールがいみじくも述べるように、すでに見てしまったこと、すでにかかわりを持ってしまった人たちにたいする、応答責任のようなものである。

 

誠実な生の報酬

自分が体験したことは、なかったすることにはできないし、たとえわたしがそれを忘れることができたとしても、それは依然として現実に残り続ける。そのような状況において、わたしは自らの幸福を、恥じることなく、誠実に楽しむことができるのだろうか。

幸福を選ぶのになにも恥じるところはないと諭すリウーにたいして、ランベールは次のように応えずにはいられない。

「そうなんです……しかし、自分一人が幸福になるということは、恥ずべきことかもしれないんです……僕はこれまでずっと、自分はこの町には無縁の人間だ、自分には、あなたがたはなんのかかわりもないと、そう思っていました。ところが、現に見たとおりのものを見てしまった今では、もう確かに僕はこの町の人間です、自分でそれを望もうと望むまいと。この事件はわれわれみんなに関係あることなんです」(307頁)

しかしながら、小説家カミュは、そのように信じる個人を贖いはしない。神罰としてのペストという立場から、無意味な死という異端的立場に移行していく神父パヌルーは死ぬだろう。記録者的参加者であるタルーは、疫病が収束にむかい、街が救われたと思われたまさにそのときに、ペストに罹患し、命を落とすだろう。その一方で、悪人らしき人々は生き延びるだろう。人々の行為や意志と、その生物学的な生き死にのあいだには、相関関係がない。

カミュの『ペスト』において、疫病は、出現したときと同じように、ほとんど理由なく消滅するだろう。ここでもまた、カミュの小説は、個々のキャラクターの具体的な行動や感情と、物語全体の流れを呼応させようとはしない。自らも生き延び、街も生き延びたかと思ったとき、医師リウーは、街の外の療養所に入っていた妻の死を知らされるだろう。最後に残るのは、聖者でも悪魔でもなく、善人でも悪人でもなく、タルーが第3の範疇と名指した医師になろうと努める人々である。

それはただ、恐怖とその飽くなき武器に対して、やり遂げねばならなかったことを、そしておそらく、すべての人々――聖者たりえず、天災を受けいれることを拒みながら、しかも医者となろうと努めるすべての人々が、彼ら個々自身の分裂にもかかわらず、さらにまたやり遂げねばならなくなるであろうこと、についての証言でありえたにすぎないのである。(457-58頁)

なるべきことをなすこと、やりとげるべきことをやりとげること、それがおそらく、共犯者であり加担者であることを強いる社会構造のなかで、そこからひたすら逃れるのとはべつのやりかたで、犠牲者とともに感じ、ともに在り、そして、自らの心の平穏を勝ち取るだけではない、自己のうしろめたさを払拭するためっだけではない、そのようなうしろめたさをこそ作り出したこの世界そのものを変容させていく可能性なのだということを、リウーの生はわたしたちに示しているように思う。

 

死の構造を内破させる

もしペストが、わたしたち死の共犯者に仕立て上げる社会や歴史の構造の隠喩であるとしたら、もしそれが、死ぬことも消滅することもなく、「数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存」し、「部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたるために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来る」(458頁)としたら、それはまさにいまのことだろう。

COVID-19が、アメリカ合衆国において、Black Lives Matterと連動するのは、カミュの論理に従えば、ほとんど自明のことであるようにすら思えてくる。死の構造に与しないこと、死の構造そのものを廃絶すること、それが疫学的なものにとどまるのでは、まったく不充分なのだ。『ペスト』はそのような可能性をも示唆しているように思われる。

 

*1:ふたりが夜の海で幸福感に包まれながら泳ぐインタールード的なシーンーー「疫病も今しがたは彼らを忘れていたし、それはいいことだった、そして今や再びはじめねばならぬ」(383頁)は、この小説のなかでもっとも詩的であると同時に、もっとも美しい箇所でもある。ホモセクシュアル的とも、ホモソーシャル的ともいえるような、肉感的で瑞々しい文章だ(379-83頁)。タルーをめぐるこの箇所だけでひとつの短編になるような気がする。

*2:のちに明かされるように、物語の語り手は、物語の主人公といってもいい、医師リウーであるのだけれど、この入れ子状の仕掛けのおかげで、『ペスト』は、1人称的な独白と、3人称的な記述が入り混じり、2つのレベル――出来事とそれにたいする情動的反応――が交錯することになる