うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

死に魅入られた芝居:宮城聰演出、ソポクレス『アンティゴネ』

20210505@駿府城公園

死に魅入られた芝居――そんな言葉を宮城聰演出のソポクレス『アンティゴネ』に投げかけてみたい誘惑に抵抗しなければならない。これは死者のドラマではない。水をたたえた暗い舞台、中央には灯篭のように積み上げられた人の身長よりも高い岩山のうえに人ひとりが横たわれるぐらいの平たい石舞台、両側には水面から顔をのぞかせる岩の小島。そのすべてを威圧するかのように舞台後方にそびえる高い壁。水は、死の領域というよりは、死につうじる媒介であり、ここでの死は、ダンテが描き出す煉獄や仏教の地獄とはちがうものらしい。怖ろしいものや苦しいものではないのだ。死は鎮魂されるものであり、時間にも空間にも属さない静かで安らかな状態である。雨の降りしきるなか、俳優たちは水の中を悠然と歩き、手にしたグラスをこするようにしてかすかな音を響かせている。

すべての死者を分け隔てなく弔おうとする「死んでしまえば全て仏だ」という宮城の戦略的ジャポニズムは、西欧文学の古典中の古典であるソポクレスの『アンティゴネ』に独特なひねりを加えている。ヘーゲルを始めとして、『アンティゴネ』は繰り返し論じられてきたテクストだが、それは、アンティゴネがさまざまな区分――女と男、死と生、敵と味方、血縁関係と都市共同体、弔いと政治――を横断的に攪乱するトラブル・メイカーだからだろう。彼女は社会の常態を維持するために必要な虚構の正統性を根本から揺るがす問いをわたしたちに突きつける。そのような危険なまでに重層的な複雑性が、宮城の演出では削ぎ落されている。死と生という大きなふたつの軸に編成しなおされている。

しかし、それは、安易な単純化ではなく、意図的な先鋭化である。敵方についた兄を弔おうとするアンティゴネ姉妹にしても、女の言葉に反発して都市国家の原理を押し通そうとする統治者クレオンにしても、民衆の声に耳を傾けようとしないかたくなな父クレオンを諫めようとするアンティゴネの婚約者ハイモンにしても、みなが、無国籍でノンジェンダーな同じ衣装を身にまとっている。幾何学模様のボディースーツに、光を透過する薄衣のトーガ。カツラだけが唯一俳優たちの役柄を区別する記号として作用する。

全体の構成は番号オペラに近い。プロローグとなるのは、コミカルな前口上であり、俳優たちがチンドン屋のように楽器を演奏しながら、『アンティゴネ』のお話が始まる前に起こった兄弟間の死闘をライトタッチな語りでフレンドリーに紹介する。その後、劇は、シリアスとコミカルを交代させながら進んでいく。スピーカーの語りにシンクロするムーバーの身体が舞台の空気を息苦しくなるほどに濃密に凝縮させていく言動分離のシーンに、日本の民謡的音階にのっとった節回しの歌に合わせた群舞の盆踊りが続き、場の空気が何とも能天気にほどけるのが、それは束の間のことにすぎない。劇は、アンティゴネとハイモンの死という決して避けられないすでに定まった悲劇の結末めざして、ひたすら突き進んでいく。

アンティゴネとイスメネ姉妹の対話、クレオンの議論、アンティゴネの申し開き、ハイモンの諭し、アンティゴネの嘆き、クレオンの嘆きという6つの語りのシーンのなかには、レチタティーヴォのような語りが、重唱や合唱に変容していくものもある。イスメネやクレオンの声は、コロスのように複数化される。イスメネの声は、高音域のピアニッシモの無調のコーラスと合わさり、彼女の不安や怖れを増幅させる。クレオンの声は、低音域のフォルティッシモな威圧的カノンとなり、有無をいわせぬ野太い迫力を醸し出す。ハイモンは単声で語るが、彼の言葉を後押しするかのように、コロスが同意の声を合わせる。

しかし、劇的緊張感の高まりとともに、複声は単声に移行していく。自らのかたくなさが招き寄せた息子の自死を聞かされたクレオンの最後の嘆きは、ただひとつの声の慟哭である。そのなかで、アンティゴネの声だけは、最初から最後まで、複声化されていなかったのではないか。まるで弔いの普遍性を求める彼女の主張の孤独な真実を際立たせるかのように。

アンティゴネのムーバを担当する美加理の演技が傑出していた。宮城は舞台後景にそびえる壁に役者の影絵を映し出すことで、役者の存在感を、マテリアルな肉体そのものから、ヴァーチャルな投射にまで拡張していたのではあるけれど、そのような演出家の要請に応えつつ、それを上回るほどの余剰を見せつけていたのは、やはり、SPACの看板俳優の美加理だけではなかったかという気もする。彼女の作り出す影絵は、彼女の生の肉体以上に雄弁であった。影が、おそろしく艶めかしかった。しかし、裏を返せば、彼女ほどに影で自らを語らせることに成功していたものは他にいなかったということでもある。

宮城の『アンティゴネ』は情念的でありすぎるような気はするし、この情念性は、ミソジニー的と言えなくもない女性原理――世界を救うために自分が犠牲となるブリュンヒルデ的な自己破滅的な他己救済――と地続きではないのかという疑いもわいてくる。コロスの男声と女声は使用法が異なっている。現状維持を旨とする国家の論理を補強する男声の「理」的な自己正当化的な雄弁さ、クレオンとハイモンのスピーカーの圧倒的な迫力――意図的に不自然な節回しや行またぎを、自然に響かせられるほどに、彼らのセリフは腹に落ちている――と比べると、血縁の分かちがたさを訴える「情」的な女声の響きはどうしても押し出しが弱く、センチメンタルに響く。

ソポクレスのテクストにあるクイアなところ――男たちより男らしいアンティゴネ、女(のように)なることを怖れるクレオン――が、全体的に封じ込められてしまっている。劇自体が、男と女の対決のように見えてしまう。とはいえ、それが宮城の意図したことだったのか、音響の問題だったのかは、にわかには判別しがたいところもある。

とはいえ、俳優がみな群衆のひとりとして鎮魂のための盆踊りを舞うとき、俳優がみな群衆のひとりとして鎮魂のための盆踊りを舞うとき、暗闇と静寂が舞台そのものとなるとき、わたしたちはたしかに、宮城が作り出そうとした演劇空間を共有していた。わたしたちの耳に夜の闇と水のさざめきが聞こえてくるとき、わたしたちは、ともに、死者の救済を願う極致にいた。それはまちがいないはずである。

闇と静寂が舞台そのものとなるとき、わたしたちはたしかに、宮城が作り出そうとした演劇空間を共有していた。わたしたちの耳に夜の闇と水のさざめきが聞こえてくるとき、わたしたちは、ともに、死者の救済を願う極致にいた。

カツラをつけることで現世から演劇的に作り上げられた死者の世界に入っていった俳優たちが、ふたたびそのカツラを外してこの世に戻ってくるとき、その「この世」は、舞台が始まる前に存在してた「この世」とは異なっている。憎しみではなく、愛が頒け与えられる世界へと、わたしたちは連れ去られている。それは舞台の魔法が束の間のあいだ現出させた儚い願いでしかないものかもしれない。しかし、その連れ去られた愛の世界こそ、いまここでわたしたちが住まうべき世界なのである。

俳優たちがクライマックスのなか水のなかで静かに鎮魂の盆踊りを舞うとき、水面を打つ雨の音、水の中を動く俳優たちの身体の音が、たしかに聞こえた気がした。