うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20240320 ケベックシティ3日目午後後半。

ケベックシティ3日目午後後半。急いで宿に戻る。川岸に広がる「Plaines d‘Abraham」は地図ではなんのことかと思っていたけれど、来てみて見てみてよくわかった。ここはすごく広い公園(長さ2キロ、幅400メートル)であり、冬はカントリースキーができるようになっているのだ。だから「plaines(平原)」ということなのだろう。

しかし、ここは「Parc des Champs-de-Bataille(戦場公園)」と呼ばれてもいる。1759年、侵略してきたイギリス軍と防衛側のフランス軍の合戦場でもあったからだ。ジャンヌ・ダルク像がある一画があるのも、それがわかると腑に落ちるし、大砲が野ざらしになっているのもわかる。

「ヌーベル・フランス」でのフランスとイギリスの衝突は、局所的なものではなく、世界規模で繰り広げられたヨーロッパ諸国の覇権をめぐる闘いの一部であったようである。それは神聖ローマ帝国の帝位継承問題を発端とするもので、ヨーロッパでは7年戦争(1756-63)とよばれるもので、ハプスブルク家の弱体化とプロイセンの台頭、プロイセンと結んだイギリスによるフランスの植民地の獲得をもたらし、アメリカ独立戦争フランス革命の遠因となったという。

それにしても、ケベックシティには、17世紀の植民地戦争にしても、第一次大戦にしても、戦争の記憶が記念碑のかたちで街中にあふれている。それはおそらく、カナダにとって、これらの戦争が正当化されるべきものであり、自国の歴史に肯定的なかたちで(イギリスにたいする敗北であろうとも)組み込むことができるからなのだろう。

(それとの比較で言えば、日本では、戦国時代以前の闘いは「国家」の歴史には回収しがたいローカルな「内戦」であり、明治維新の敗者たちは「国家」の歴史のなかでは否定的な存在でしかなく、大東亜戦争は耐え難きを耐え忍び難きを忍ぶものでしかありえず、戦争と軍隊を、自国のアイデンティティをポジティブに規定するようなかたちで、国家の物語のなかに書き込むことができていないのだろう。)

モントリオールに戻ってきて、ここがカナダ第二の都会であることをいまさらながらに痛感したのは、ケベックシティとの落差のおかげだ。