うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20240312 モントリオール2日目午後前半。オールド・モントリオール。

モントリオール2日目午後前半。オールド・モントリオールモントリオール発祥の場所ということもあって、歴史的に重要な建築物がひしめき合っているが、そのなかでも象徴的なのは、フランス語だと Pointe-à-Callière - Cité d'archéologie et d'histoire de Montréal というやたら長い名前の博物館だ。モントリオールの始まりはいくつかあるが、1642年、モントリオール島ーーそう、モントリオールは、東側を流れるセント・ローレンス川と西側を穿つオタワ川のあいだの大きな島なのだーーにやってきたカトリックの宣教師を含む1行50数人が作ったヴィル・マリ、「マリアの街」であり、「カリエール」という名前は初期の統治者に由来する。

「考古学」を冠しているが、先史時代の遺物はそれほど多くはない。もちろん、先住民がすでに現在のモントリオール島を活用していたことはきちんと触れられているものの、やはりその語り口はヨーロッパからの視点であり、さらに言えば、フランスよりのものという感じもする。

ともあれ、これは1642年から350周年になる際に手掛けられた事業であり、街の地層を発掘することで、地面の下に堆積する歴史を公開するという試みであったようである。マルチメディア的な展示が駆使されてはいるものの、何よりもここの目玉なのは、発掘された遺構がそのまま展示されている点だ。つまり、これは、遺構を破壊するのではなく、保存するために、あえて遺構の上に建てられた博物館である。

(ここを見ていて、静岡市歴史博物館が何をやろうとしているのかが腑に落ちた気がするけれど、ここの圧倒的なボリュームに比べると、静岡のものは余りに物足りない。)

Wikipedia の「モントリオール」の項目ではあまり取り上げられてはいないけれど、この博物館が大きくフィーチャーする物語とは、1701年、北東のほから、西は五大湖のあたりまで、1500名近くに渡る各地の先住民の代表者たちが集まり、モントリオールをフランス人の街とすることに同意する平和条約を結んだことである。フランス側の署名とともに、39の絵文字による署名が記された文書のことが、何度か取り上げられていた。

(ところで、このフランス側と先住民側の調停を取り持った立役者は、ヒューロン・ワイアンドット族のカンディアロンクであり、彼の説得によって先住民たちはフランス側との条約締結に同意したとのことだが、彼のことは、グレーバーとヴェングロウの『万物の黎明』の冒頭で取り上げられている。)

モントリオールはフランスの宣教師が始めたとしたらーーフランス人が17世紀初頭にこの島にやって来たとき、近隣の先住民は数十年前に何らかの理由でこの島から出ていっていたそうであるーー、それが大きく転換するのは、1760年、イギリスの侵攻のことである。それ以後は、古参のフランス系に取って代わりとする新参のイギリス系(スコットランドイングランド系)が勢力を拡大していくが、前者はそれに粛々と従ったわけでもなく、そこに、カナダのイギリスにたいする距離感があるし、そこで距離感を保つことができたところが、その他の大英帝国の植民地とは一線を画すところなのだろう。

博物館のフロアプランはひじょうに入り組んでおり、かつ、複数の建物からできているため、正直な話、どこにいるのかまったくわからなくなってしまうが、順路に沿って進めば迷うことはないだろう。

あまり期待もせず、何があるのかもよくわからないまま行ったけれど、これはすごくよかった。勉強になったし、郷土史というある意味ではローカルで、ややもすれば保守的になりかねないものを、「交流」を軸とした歴史観を押し出すことで、街の未来をこれまでの歴史の延長線上に位置づけ、街がコミットすべき価値を明確化していた。考古学と歴史学の博物館ではあるが、根本では未来志向の展示であった。