うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

シェイクスピア、寺内亜矢子演出『リチャード二世』:20230114@静岡芸術劇場

演出の核心に触れるネタバレを含んでいるので、観劇前には読まないほうがよろしいかと思います。

20230114@静岡芸術劇場

黒い大きな格子に妖しげな光が投じられている。舞台奥から観客席に向かって少し傾いで、どことなく威圧的に、どこどなく不気味にそびえている格子は牢獄を思わせるかもしれない。舞台の両袖は大きく開けているが、そのような広がりは解放感をもたらさない。黒一色の空間の空虚さが際立つばかりである。舞台中央には、棺にも机にも台座にもみえる黒い長方形の物体が横たわっている。気がつくと、入場してきていた俳優たちがその後ろの、格子の足元の椅子に腰かけている。寺内亜矢子の演出によるシェイクスピア『リチャード二世』は虚ろな黒さのなかから始まっていく。

『リチャード二世』という劇を王権をめぐる権力闘争の物語とまとめるのは正しくないだろう。というのも、本劇はリチャード二世の退位と暗殺とヘンリー・ボリングブルックの戴冠によって幕を閉じるけれども、ボリングブルックはいわば心ならずも王になるのだから。リチャード二世によって国外追放され、アイルランドへの軍事遠征を目論む王の身勝手な独断で先祖伝来の領地までもを没収されたボリングブルックだったが、遠征の隙をついて帰還する。すると、リチャード二世の暴君ぶりに反感を持っていた諸侯もボリングブルックに味方する。領地の返還しか求めていないボリングブルックに、近臣を殺されて諦めてしまったリチャード二世が降伏する。わたしたちは華々しい勝利でも、燦々たる敗北でもなく、痛々しいアイデンティティ・クライシスを目の当たりにさせられることになる。

登場人物の多いかなり込み入った史劇を、その歴史性や複雑性をいたずらに簡略化することなく、しかし、それでいてわかりやすくとっつきやすいものにすることが、演出家のプランの根底をなしていたようだ。それはおそらく、寺内が、県立の劇団であるSPACの使命と真摯に向き合うことから導かれたものではなかっただろうか。中高生が鑑賞しても愉しめる、しかし、中高生にいたずらにおもねるのではなく、懐の深い古典のポテンシャルを引き出すことによって。

舞台がつねにリアルとつながっていることを、わたしたちはたえず意識させられる。虚構と現実を橋渡しするかのような存在——劇中人物とも観客代表とも言い難い、境界線上の存在――がいる。「この劇の案内人」(永井健二)は劇が始まる前に、登場人物をひとりひとり壇上にあげて紹介するだろう。すると紹介された側も、虚構の役柄を演じる生身の存在であることを告白するように、おどけたように、「〇〇役を務めます」と軽口を聞くだろう。そして彼は、ト書きを読み上げて場面転換を促すとともに、幕が終わるごとにそのあらすじをまとめ、次の幕の予告を行う。だからわたしたちは、物語の筋を追うことにとらわれすぎることなく、舞台上で生起する言葉と身体の饗宴を満喫することができる。

そこには複数のスタイルが共存している。タイトルロールであるリチャード二世(阿部一徳)は圧倒的な安定度を誇る揺るぎない身体を基盤にして、気まぐれなところからメランコリックなところまで、虚無的な不気味さから突然の感情的な暴発まで、言語的な超絶技巧の演技を軽々と繰り広げ続けていた一方で、もうひとりの主役であるヘンリー・ボリングブルック(本多麻紀)は、身体的強度と語りの密度を呼応させるように、怒れる若者の軽率さや勇敢さから、強いられた威厳やいかんともしがたい困惑まで、可変的で柔軟な力強さと繊細さで表出することに成功していた。

キャスティングには、ジェンダーと年齢の面で、意図的な偏りがあった。リチャード二世側は男性で年長より、ボリングブルック側は女性で年少より。しかし、どちらも、意図的にニヒルであったり、不思議な踊りであったりと、意誇張された不自然な所作を、力業で自然に提示していた。リチャード二世の巻き返しを目論む修道院長(大高浩一)や司教(小長谷勝彦)は大人の余裕をただよわせる一方で、寵臣たるグリーン(牧山祐大)はおどけた滑稽味を巧みにコントロールしていた。その一方で、ボリングブルック側につくノーサンバランド伯(石井萌水)やロス卿(片岡佐知子)は、やや物足りない部分があったけれども、それは演技の問題というより、役柄それ自体の重要性に起因するものであったかもしれない。リチャード二世の王妃(宮城嶋遥加)は過剰にお姫様すぎた気がする一方で、宮廷の儀礼主義や民衆のリアリズムを違和感ない過剰さで提示して見せた式部官兼庭師(渡辺敬彦)にはベテランの巧みさがあった。社会の様々な階層、王家から貴族から民衆までが、異なる演技スタイルによって、的確に演じ分けられていた。

『リチャード二世』は家系の物語である。ボリングブルックの父であるジョン・オブ・ゴーント(吉植荘一郎)は、追放される我が子ボリングブルックを思いつつ、叔父として、死の床にある臣下として、リチャード二世を諫めようとする。もうひとりの叔父であるヨーク公(木内琴子)は、リチャード二世の留守を任されるがゆえに、我が子オマール(ながいさやこ)のリチャード二世への忠誠を、私心に逆らいながら、公平にも糾弾しようとする。そのあたりの生々しさが、過不足なく提示されていた。

臣下としての真心と、血縁ゆえの僻目とが、すなわち、超法規的な赦しの問題が、本劇のクライマックスをかたちづくることになる。オーマールは、リチャード二世への忠誠心から、あくまで彼に殉じようとするが、その父ヨーク公は、中立派として、我が子の陰謀を罰しようとする。しかし、ヨーク公爵夫人(片岡佐知子)は、血のつながりを押し通すことで、我が子の赦しを新王たるボリングブルックに願い出るだろう。

ヨーク公ヨーク公爵夫人、その息子たるオーマールは、歌舞伎的な、いかにもわざとらしい愁嘆場を演じることになるが、それはいわば、歴史的特殊性のなかで表出する肉親的普遍性が、日本的な表現様式に落とし込まれていた。そのような様式的交雑性こそ、宮城聰率いる劇団SPACの強みだ。この赦しのシーンには、日本的としか言いようのない情緒的なカタルシスがあった。

その一方で、寺内の演出は宮城的なものを引きずりすぎたのではないかという気もする。心ならずも王位についたボリングブルックを祝福する音楽が、マシンガンやミサイルの音であり、幕切れのかたちながらの和解が分裂の表象にほかならないというアイロニーは、宮城による『ハムレット』を想起させずにはおかない。シティー・ポップ的な軽快な音楽と、舞台上の重苦しさのコントラストも、宮城の演出レパートリーを思わせる。

しかし、ボリングブルックの独り言めいた希望——リチャード二世の死――を叶える存在を、フードを被ったロングコートの匿名的で複数的な存在に転化するという現代的な翻案は、宮城ならば試みなかった冒険であり、現代性を強く押し出した演出である。

権力者にたいする忖度は、誰か一人の問題ではなく、集団的な問題にほかならない。そして、忖度された側が、忖度されることで、本当に幸福になるかは、決して定かではない。誰もが相手のためによかれと思ってなした行為が、誰のためにもなっていなかったことを、わたしたちは目の当たりにさせられる。利他的な滅私奉公が、環境的な居心地の悪さに転化したことを、わたしたちは強制的に見せつけられる。

虚構の舞台を安全な距離から愉しんでいたはずのわたしたちは、そこで、突如として、現実における戦争の問題を考えることを余儀なくされるだろう。鳴り響く戦禍の音は、決して、虚構の音ではない。舞台は、たんなる虚構ではない。ありえるかもしれない可能性であり、ありうべきではない可能性である。それをいかんとするかが、わたしたち市民に問われているのである。

 

いくつか気づいた点。史実的には、リチャード二世とボリングブルックは同い年で、劇中の時点では30歳前後。王妃は23歳年下とのことだから、劇中では10歳前後ということになる。そう考えると、彼女がずっとぬいぐるみを持っているのも納得の演出ではあるが、そのあたりの解説がどこかでひとことあってもよかったのではないか。

ともあれ、キャスティングのせいで、かなり年長のリチャード二世に、まだ若造のボリングブルックが挑むという構図に見えてしまっているきらいはある。しかし、このふたりがまだ30前後だとすれば、「劇場文化」のなかで河合祥一郎が書いているように、リチャード二世がハムレットを先取りするキャラクターであるというのはよくわかる話ではある。しかし、今回の舞台では、諦念的なことを告白するリチャード二世はむしろリア王やプロスペローのようであり、ボリングブルックはホレイショ―やフォーティンブラスのようでもあった。

「この劇の案内人」は、かなり意図的に、場を断ち切るように「退場」の一言を発する。その結果、観客は、劇の出来事や登場人物にたいする過度な感情移入を禁じられることになる。全体をとおしてそういうト書きの読み方だったので、これはやはり演出的な計算なのだろう。