うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230115 『閃光のハサウェイ』をAmazon Primeで視聴

閃光のハサウェイ』をAmazon Primeで視聴。

ガンダムはテロをめぐる物語でもある、という言い方は、テロが何かを定義することを求める。テロは字義どおりには恐怖の意味であり、テロは恐怖を手段とした目的の遂行である。恐怖という手段は、物理的には、恐怖をもたらす暴力のことであり、その究極的な形態は生命を奪うことであろう。

しかし、ここでいっそう重要になってくるのは、具体的なかたちで加えられる暴力がわたしたちの想像力におよぼす波及効果だ。「誰かが殺されたように、わたしも殺されるのではないか」という未来にたいする恐れであり、それがわたしたちの思考や感性を縛ることになる。テロ行為は瞬間的なものかもしれないが、そこには持続的な効果がある。

テロは非合法的なものでもある。近代国家の法体系のなかでは、暴力の行使が国家機関(警察や軍隊)の担当になっているからという理由ではあるが、さらに深い理由は、テロが現行のシステムが許容するのとは別のやり方で目的を遂行しようとするものだからである。近代民主主義において、政体の変革は選挙を経なければならないが、テロは、選挙とは別の筋道で、たとえば要人暗殺というかたちで、さらには、クーデターのようなかたちで、政体の変革を成し遂げようとする。だから、テロは二重に非合法的である。

テロは、いわば、事後的にしか正当化されない。テロは、それが起こった瞬間は、犯罪行為でしかない。しかし、テロによって目的が達成されれば、そのために用いられた手段を、遡及的に、合法的なものであったと断じることもできる。テロは、システムに入れられる亀裂であると同時に、システム全体を作り変える原動力にもなりうる。だから、テロは革命的でさえある。

ガンダムは、テロによる革命物語でもある。

ガンダムの物語世界がどのような政治組織、国家形態をとっているのかは、いまひとつよくわからないが、どうやら軍事国家ではあるらしい。地球の政治家は大いに腐敗してはいるものの、まったくの圧制というわけでもなさそうだ。ジオンは帝政的であり、血縁にもとづく世襲制ではある。このような世界で成り上がり、世界を変えていくには、官僚になるか、軍人になるかの二択であり、それにしたところで、成功はかなりおぼつかない。というのも、一個人が巨大な組織を根本から転換するのは、ほとんど不可能だからである。

だから、シャアは、士官学校に入学して軍人になるという正攻法のルートを表向きはたどることになるが、そこからますます逸れていく。そして、『逆襲のシャア』では、国家権力を掌握し、トップとなりながら、地球連邦を脅迫するために、交渉でも、戦争でもなく——戦争もまた交渉の一形態であり、合法的に認められた手段であると言えなくもない———、コロニー落としというテロを仕掛ける。

テロは数の不利をひっくり返すための手段もである。正攻法には数の力がいる。選挙にせよ、戦争にせよ、少数派の敗北は避けがたいからだ。その意味で、テロは、弱者側による反撃であり、多数派の喉元を一挙に食い破ろうという試みである。

それは世論なしには不発に終わるものだ。いかなる政体であれ、数の上で最大なのは、政治家でも軍人でもなく、一般市民である。一般市民の心を捉えることが、テロによる目的遂行には不可欠なのだ。つまり、テロは、賭けのようなものである。直近の目的は、自らが行使する暴力によって、実現可能かもしれない(たとえば要人暗殺)。しかし、遠大な目的が、直接的なテロ行為の波及効果として達成されるかは、未知数である(たとえば革命)。この意味で、ファーストにおけるシャアは、前者の目的においては成功し(ザビ家の抹殺)、後者においては失敗する(ジオン帝国の変革)。同じことが、『逆襲のシャア』にも当てはまる。コロニー落としには成功するが、地球人を重力から解放し、すべての人をスペースノイドにするという遠大な目的は、かなえられないだろう。

 

閃光のハサウェイ』は『逆シャア』から12年後の世界の物語であり、シャアという革命のアイコンが依然として世論にあり、人々の想像力を支配している世界である。革命の可能性はいまだ世論のなかでくすぶっている。

ハサウェイは革命組織を率いる存在であるが、すでに手詰まり状態に陥っているともいえる。シャアはコロニー落としという巨大テロを敢行することができたが、ハサウェイたちにはそれに匹敵するようなインパクトを与えられる手段がない。世界を変えたいという思いは、彼らに実行可能なテロ手段によっては、どうにもかなえられない。

だから『閃光のハサウェイ』は、必然的に、不発に終わる物語であり、閉塞感の物語にほかならない。全編にわたる暗い色調が、そのような雰囲気を増幅する。

 

きわめて政治的な物語であるはずの『閃光のハサウェイ』は、結局のところ、まったく個人的なレベルにおいて、ハサウェイの心理と記憶のレベルにおいて、展開されていくことになる。ミステリアスな女性ギギは、『逆シャア』のクエスを彷彿とさせる人物であり、彼女に翻弄されるハサウェイは、一個人としての彼の優柔不断さの現れであると同時に、革命家としての彼の優柔不断さの現れでもある。ここでは個人的な思い入れと、世界にたいする思い入れが重なり合い、前者が後者の核であるかのように見えてくる。

ガンダムにおいては、この手の取り違えがつねに発生する。シャアは革命家としてふるまおうとしながら、同時に、彼が心を惹かれた人間たち(ララアやアムロ)との個人的執着に捉われていく。その結果、彼の公的な振る舞いが、あたかも、私怨に端を発するものであるかのように見えてくる。その意味で、ハサウェイはきわめてシャア的な人物であり、だからこそ、彼の革命家としての目論見は成就しないのである。

 

閃光のハサウェイ』ではっとさせられるのは、中盤で、ハサウェイがギギを抱えて、モビルスーツ戦のなか市街地を逃げ惑うシーンだ。滞在していたホテルを襲撃したのは、ハサウェイが属する革命組織のモビルスーツであり、それにたいして連邦軍は、市民への被害も顧みず、市街戦を仕掛ける。そのような戦闘のさなかにあって、地べたを駆け回る人間たちは、まったくちっぽけなものだ。ビルから落ちてくる瓦礫によって、モビルスーツの足によって、簡単に踏みつぶされてしまうだろう。ビームライフルビームサーベルのあおりを食らって、簡単に殺されてしまうだろう。そのような戦争の現実が、戦闘地帯における生と死の圧倒的なまでの平等性が、秀麗な作画によって描き出されていた。

 

作画は全体的にすばらしい。前半のテロ鎮圧のような人間の動きにしても、後半のモビルスーツ戦のようなメカの動きにしても、よくできている。ただ、ところどころで人間の動かし方には違和感もあった(3D作画だからだろうか、たとえば幕切れのところでハサウェイが船のデッキの上を歩いていくシーン)。夜のシーンが多いせいもあって、ただでさえ暗めの色調が、物語の雰囲気と相まってますます暗くなっており、見づらいとさえ感じる部分もあった。