うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ズレたままの演出:SPAC宮城聰演出、北村想『寿歌』

20191025@静岡芸術劇場

「ちょっとそこまで」と「ずっとむこうまで」

「「ちょっとそこまで」と「ずっとむこうまで」」は、どのあたりが、似てるんでしょう」とヤスオはゲサクとキョウコに訊き返す。似ているようで似ていない、似ていないようで似ている、けれども説明を求められると言葉につまってしまう。そんなズレた不思議が『寿歌』の世界では重なりあっていく。

核戦争後の焼け野原になった日本。戦争は終わったのに依然として水爆が東京のほうで破裂し、リチウム弾が流れ星のように空を飛び交う。放射能の灰が舞っている。大気は不安定で、昼は夏のように暑いくせに、夜はひどく冷え込む。雪さえ降ってくる。世界はすでにタガが外れ、out of jointしている。

そんな世界を旅芸人として「いいかげん」にさまようゲサクとキョウコに、ヤスオが加わる。あてどもなく人のいそうなところで適当な芸をして糊口をしのぐゲサクたちに、エルサレムという明確な目的地を持つらしいヤスオが加わる。共通するところなど大まか方向でしかない、それどころか、どこかを目指して移動中であるということぐらいしか共通点をもたないトリオが、奇妙な珍道中に入る。それは合理的に説明できるようなものではない。こちらがなぜと問おうとするまえに、舞台はすでに前に進んでいる。

もしゴドーがすでに来てしまっているとしたら

北村想の戯曲はベケットの『ゴドーを待ちながら』の系譜に連なるだろう。不条理な世界と/の笑い、何も起こらない世界と/の暴力。しかし、まるで『寿歌』が『ゴドー』と同じ世界にあるように思われるとしても、ここには決定的な違いがある。すでにゴドーはこの世に到来しているらしいのだ。

ヤスオがキリストの再来であること、キリストその人であることは、どうもまちがいない。戯曲を読んだことがないので、宮城演出がこの点を強調しているのか、それとも北村の戯曲に忠実なのかはわからないが、キリストであることをほのめかす細部は見逃しがたいほどに多い。物品引き寄せ術は、石をパンに変え、水をワインに変えた逸話を思い出させるし、ロザリオを見ていぶかしがるくだりは、メタ的な自己言及になっている。重傷のゲサクを背負ってスロープを登っていくシーンから、ゴルゴダの丘と磔を思い出さないほうが難しい。ロザリオについていえば、芸を見に来た人に、複製したロザリオを大盤振る舞いした結果、ロザリオに雷が落ち、町の人びとか石を投げられるシーンについても同様だ。命を落としたゲサクが再び生き返ると、ヤスオは茨の冠を取り出して自ら被り、お別れを告げる。『寿歌』はまるでイエスのビルドゥングス・ロマンであるかのようだ。救うべき人類がほとんどいなくなった世界で神は依然として存在価値があるのかという懐疑を克服したかのように、エルサレムに向かうことを宣言して、ヤスオは去っていく。

救いが夢見られるのは、救いがいまだ訪れていないからだ。待つことのうちには、不安と希望の両方がつまっているからこそ、もどかしくもあれば、よろこばしいものなのだ。ヤスオがすでに訪れている『寿歌』では、この未決状態から引き出せる希望がいくぶん目減りしている部分はあるだろう。しかしながら、ここで同時に明らかになるのは、救い主の到来によってすべては救われることはないし、それどころか、救い主すら依然として救われていない存在であり、むしろ神を救うことこそが、人の役割であるかのようでもある。

こうしてヤスオもまた、ゲサクとキョウコのドタバタに巻き込まれ、その能天気でもあれば頽廃的でもあるコメディーのなかに引き込まれていく。

 

笑いと恐れ、または救いの非道徳性

しかし、キリストのヤスオがシリアスを、旅芸人のゲサクとキョウコがコメディーを担当しているというのは、明らかにちがう。キョウコはパルジファルのような聖なる愚者の系譜に連なる存在であり、自然児であり、社会的な道徳観のようなものを突き抜けている。だから子どもの遺体のそばに供えられていた人形をこともなげに拾ってしまう。座長の私生児であるらしいキョウコの面倒を見るゲサクは、一見したところ、分別ある人間のようだが、彼もまた、深いところで病んでいる罪人である。戦時中は爆弾を作る工場にいて、爆弾にとても詳しいが、PTSDのような深い精神的傷跡を抱えてもいる。悪夢にうなされ、宮本武蔵や怪傑ゾロの物まねをしたかと思うと、発作的にヤスオの首を絞めて殺しかけるし、実際にこれですでに2人ほど芸人一座の人間を殺めているらしい。ヤスオがキョウコに助けを求めると、彼女は、ゲサクが子どものころ頭を噛まれて以来大の苦手だというカバの写真(!)をゲサクの眼前の突きつける。するとゲサクは途端におとなしくなってしまう。コミカルからな物まねから殺人衝動、そして急転直下の驚きの幕切れ。

ここでは笑いと死が分離していない。両者が隣り合わせになっている、というよりは、両者のあいだに線を引くことができないのだ。向こうにある子どもの死体と眼の前の夕飯なら、ご飯のほうが重要なのだ。それは社会的規範が崩壊した、人気のない戦後世界において、当然のことかもしれないし。慰霊の人形を拾ってきたキョウコ、それを戻しに行く前にさっさとメシを食ってしまえと諭すゲサクばかりか、キョウコと同じ毛布で当然のように寝ようとするヤスオにしても、どこかズレている。

ズレているせいで、生と聖性が、死と笑いが、いきなり繋がってしまう。蛍の子どもを身ごもったかもしれないというキョウコの言葉は、荒唐無稽に聞こえる反面、そこに恐るべき光の希望の可能性が孕まれているようにも響く。救いがあるとしても、それはわたしたちの思う道徳的な行為のおかげでは、決してないだろう。ゲサクが暴発したピストルで背中を撃ち抜かれ、息も絶え絶えに横わたりながら、仏教説話を披露しながら、犠牲の尊さではなく、生き物ひとりにできることのたわいのなさ――えさになって食べられるだけ――を解き、そのどうしようもないちっぽけさの哀しみを強調するとき、ここで言祝がれるのは、絶対的に陽性の世界ではなく、かぎりなくグレーな力のほうだろう。キリスト教アガペーという絶対的な愛に望みをつなぐとしても、そしてクリスティアンになろうと考えたことがあると告白するゲサクにしても、この劇で最終的に希望の萌芽となるのは、輝かしい愛でも完璧な赦しでも高貴な犠牲でもなく、何かわけのわからない自然の愚かしい力のほうであり、それが最後にキョウコが知らず知らずのうちに口ずさむ歌になる。

 

野外の力を借りられず

宮城の演出はそうしたズレの重なり、そしてそこから生まれてくるおかしみと救いとを、前景化しようとしていたのだと思う。透明な袋に詰められて舞台に敷き詰められたカラフルなゴミは、破壊や荒廃からの崇高な再生のための装置なのだろう。

しかしながら、昨年のふじのくに演劇祭のときに野外劇場「有度」の公演における自然と舞台との協働――夜闇のなかに浮かび上がる人工的な蛍の光の夢幻性――をどうしても思い起こさずにいかない観客からすると、静岡芸術劇場という屋内の劇場空間は、果たしてプラスに作用していたのだろうかと思わずにはいられない。

大きな問題は舞台装置のスケールだ。もしかすると8の字スロープというプランを引き継ぐことにこだわりすぎたのかもしれない。かなり記憶はあいまいだが、「有度」では、下りのラインが客席にたいしてすこし斜めになるようにスロープが置かれていていたように思う。いや、それは単に、座った場所のせいでそう見えただけかもしれない。ともあれ、「有度」では、立体交差の部分や奥行きがいまひとつ見づらいところもあったというのが個人的な印象だ。芸術劇場では、スロープがずっと正面を向いていて、ストレートに観客席のほうに下っていくようになっていた。しかし、それで奥行きは強調されたけれど、舞台の横の広がりが犠牲になった。

同じスロープを流用したのかはわからないし、有度と芸術劇場の舞台の実際の大きさも知らない以上、ここで述べるのは主観的な印象にすぎないけれど、有度における装置が圧倒的なスケール感をもって堂々と迫ってきたのにたいして、芸術劇場におけるそれはいかにもこじんまりとしていた。舞台の真ん中40パーセントくらいを占める8の字のスロープは、中途半端に大きく、中途半端に小さかった。もし衣装デザイナーの駒井友美子が言うように、『寿歌』のすべてがゲサクの頭のなかの出来事であるとしたら、スロープは舞台全体を覆うほど巨大であるか、もっともっと小さい箱庭のようなものであるべきだったのではないかという気もする。そう考えると、舞台を縦にも横にも占有する圧倒的な容量の舞台装置を使うことで、芥川の脳内劇場をビジュアル化してみせた多田淳之介演出の『歯車』は、実にうまいところを突いていたのだと、いまさらながらに気がついた。とはいえ、個人的に駒井の解釈は買わないけれど。

今回の再演におけるビジュアル面でのいちばん大きな変化は、キョウコのドレスが赤から黒っぽいものに変わったところだろう。初演時はゲサクが黒、キョウコが赤、ヤスオが白と、三者三様の出で立ちであったのに、今回はゲサクとキョウコがともに黒系、ヤスオが白系、そしてともにくすんだ色合いで、もしかすると床にちりばめられたゴミにしても、前回ほどの原色的なパステル感に乏しかったかもしれない。そのせいもあってか、キョウコとゲサクの視覚的な対比がトーンダウンしてしまっていたきらいはある。

野外という舞台の奥のないところ、外と繋がっているところだからこそうまく機能していたものが、屋内ではどうも箱庭めいてしまっていたように感じられた。それはひとえに、外に向かって発散されるようにして組み立てられていた有度の『寿歌』を、それとはまるで空間的力学の異なる屋内にわりとそのままもってきてしまったせいで、不可避的に起こってしまったことだったのかもしれない。とくに蛍のシーンは、屋内の閉鎖性がもっともマイナスに作用していたように思われた部分だった。もちろんこれは、あくまで前回との比較であり、今回の公演を単体で見たらまたずいぶんちがう印象を抱いたのだろうとは思うものの、SPACのようなところで、ほんの1年半での再演ともなれば、観客の記憶がまだ鮮やかであることは容易に想像できたところだろうし、観客の記憶の問題と舞台の空間の狭さの問題――物理的な小ささというよりも、空間的な空気感の閉塞感という意味で――が、中途半端に扱われていたような気はした。

 

光の美、演出の迷走

その一方で、屋内だからこそうまくいっていた部分もある。完全な暗転を行うことができる点や、ノイズをかなりのところまでコントロールできる点は、芸術劇場の舞台だからこその強みであり、その意味では場面転換の音楽であるとか、逆光のなかで俳優と装置のシルエットだけが浮かび上がる光と影の絵は、どれも圧巻であり、宮城的な美を感じさせる瞬間であった。

しかし、全体的に宮城らしい演出であったのかというと、どうなのだろうか。もちろんSPACを見始めてやっと2年、宮城の作品を数多く見たとは言えないが、それでも、『オセロー能』、『マハーバーラタ』、『寿歌』、『顕れ』、『二人の女』、『マダム・ボルジア』、『イナバとナバホの白兎』と8作品を体験している。それを踏まえてのことだが、二人一役を使わない宮城の演出プランの独自性がどこにあるのかというと、照明による光と影の活人画的な静止であり、自然のエレメントとの融合にあるように思う。ムーバー/スピーカーという手法を使わないとしても、宮城が目指しているのは依然として、ブレヒト的な異化作用というハイモダニズム的な方法論的切断=反自然主義によって、プレモダンな宇宙――自然のエレメントが周囲の空気を充たし、社会的規範や理性には収まりきらない個の情が溢れ出し、共同体に赦しや救い(の萌芽)がもたらされる――を表象することであり、その表象作用のなかに、崇高な夢幻の美を出現させることなのだろう。

県立劇団として、大衆性と芸術性という両立しがたいものを両立させることを求められている部分はあるだろう。民衆的とは言えないし、ポピュラーであるとは決して言えないにしても、普遍的ではあるような広く深いテーマを、モダニズム的な不自然な手法によって具現化するというのが、ぎりぎりの折衝点なのかもしれない。公益性という観点は無視できないだろうし、非-美学的なファクターがいろいろと入り込んできているせいで、かなり難しいバランス感覚を要求されている側面はあるだろう。

その意味では、今回の『寿歌』再演もその延長線上にあるものではあったし、良くも悪くもいつも通りで、期待外れでも期待以下でもない、及第点以上の舞台ではあった。けれど、演出家の迷いのようなものなのかもしれない何かがにじみ出てしまっている舞台でもあったと思う。

 

もっとも中途半端だったのは、劇半ばの劇中劇で、第四の壁を越えて観客を劇に引き入れようとしたところだ。ゲサクとキョウコとヤスオが、適当な芸をやり、餅撒きよろしくロザリオを配り投げるシーンで、実際の観客が、劇のなかの見世物の観客と重ね合わされる。客席が明るくなり、俳優たちはあきらかに観客席を意識したそぶりをする。

観客参加型という方向性は、宮城が模索中の手法なのかもしれない。彼は『マダム・ボルジア』においても、観客を劇中の群衆に見立てるという演出プランを導入していた。しかしながら、『マダム・ボルジア』の観客参加手法がまったく中途半端なものにおわり、劇の内容とはまったく関係のないところでのかかわりにすぎなかったように、今回の観客巻き込みの誘いにしても、単発的で、場当たり的で、まさにとってつけたようなものだった。そこで観客はいちど劇世界に引き込まれるが、その後、また劇世界のどこかに置きざりにされてしまう。

基本的に3人の会話劇として演出される『寿歌』において、観客はせいぜい「見えない群衆」であるしかなく、それゆえ、ゲサクの語りのクライマックスを形成する仏教説話のくだりになると、わたしたちは、先ほどの誘いにのって劇世界内存在に留まるべきなのかそれとも、第四の壁の向こうから虚構世界を眺めている現実世界の人間としての自分を意識すべきなのか、どっちつかずの状況に取り残されてしまう。昨年のふじのくに演劇祭で上演されたオスターマイヤーによるイプセンの『民衆の敵』は、その点、見事なものだったと思う。オスターマイヤーの演出において、観客は劇世界内存在であるばかりか、公聴会という場面においては、劇の内容に影響を与えることの存在ですらあり、そうして現実と虚構の壁が崩され、虚構の批判力に現実の私たちがラディカルに揺すぶられることになる。もちろん、『寿歌』と『民衆の敵』はまったく性質の違う劇であるし、両者を単純に比べること自体が少々的外れではある。しかし、オスターマイヤーの計算しつくされた挑発的異化効果の教育作用に比べると、宮城の意図はいまひとつ判然としない。

そう考えると、劇が上から落ちて来る雪片によって無言のうちに締めくくられたのは、きわめて適切でもあれば、ある種の手詰まり感の現れであるようにも感じられた。もちろん、それは台本通りであり、宮城による演出がそのようなエンディングを際立たせているというのではないのだとは思う。それに、演劇の力が、二次元的に進まざるをえない言葉芸術である文学とも、技術装置による再生芸術である映画とも違う、いままさに生起しているリアルの時間と空間を俳優と舞台と観客がともに共有して生きているという特異性から来るものであるとすれば、言葉なく動かない活人画と、動きのある風景画とが、ともに光によって影絵のように演出され、舞台を閉じるというのは、むしろ演劇的に王道な締め方だったのかもしれないが、それと同じことをやったはずの「有度」にあった突き抜けた解放感の強度を、今回の芸術劇場ではそこまで感じることができなかったのは、やはり、何かがいろいろと少しずつ微妙にズレていたせいだったからだったように思う。