うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

SPAC『妖怪の与太郎』再演:コロナ禍時代の演劇の可能性と不可能性

20201205@YouTubeライブ配信

コロナ禍時代において演劇はもはや純演劇的であることを許されていないらしい。俳優はマスクを身に着けなければならないし、演出はソーシャル・ディスタンシングを内在化しなければならない。感染防止対策という演劇外のものを舞台に登場させる必然性を捏造しなければならない。

再演となる『妖怪の国の与太郎』は、このような疫学的要請にコミカルな回答を提示していた。マスクが妖怪のコスチュームに化ける。スプレーによるアルコール消毒が喜劇的なキャラクターの個性の表出のために用いられる。SPAC芸術総監督である宮城聰の代名詞ともいうべきムーバーとスピーカーの分業――言葉と身体の自然なつながりの意図的な分断――へのオマージュのような演出は、2019年の初演では借り物めいたところがあったが、舞台上で自然に動いたり語ったりすることがはばかられるコロナ禍時代のいま、まさに時宜を得たものであるように見えた。他人のアテレコする言葉に応えることの「不自然さ」は、強いられた不自由ではなく、選び取られた自由となり、俳優たちの身体そのものが、俳優たちが兼任する音楽隊の音が、雄弁な存在感を見せつけていた。ジャン・ランベール=ヴィルドとロレンゾ・マラゲラが演出を担当し、出演者のみならず翻訳者の平野暁人までもがドラマトゥルクとして参加した『妖怪の国の与太郎』は、コロナ禍時代の範例的な演劇作品であるように見えた。

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あくまで表層的なレベルでは、である。劇自体の「へんてこりんな」ところにうまく落とし込まれたコロナ対策は、プロットのレベルにまで織り入れられていただろうか。俳優の身体的な妙技や音楽の生理的な快感は、物語の哲学的、民俗学的な含意と、どこまで深くシンクロしていただろうか。

舞台は夏休みの縁日の夜のような情景から始まる。ライブ中継動画は、開始時間前から舞台を映しており、天井に放射状にはりわたされた紐からぶら下がる提灯の幻想的なほの暗い明るさのなか、セミの音がかすかに聞こえている。「ミーンミーン」という鳴き声に耳を傾け、ぼんやりと照らし出される舞台を眺めるうちに、視聴者は、自然とこの世とあの世のあわいに迷いこんでいく。

セミの鳴き声は郷愁を誘うための単なる効果音ではない。主人公の与太郎は、セミを飲み込んで命を落としている。腹の中で泣き続けるセミのため、与太郎はつねに空腹に苦しめられることになる。それは、与太郎の案内人である死神エルメスを苦しめる退屈とパラレルなものだろう。癒されることのない渇き、充たされることのない欲望。しかし、本質的には劇全体を貫くものであるはずのこの深遠なテーマは、散発的に回帰するモチーフにすぎず、装飾的なところにとどまっていた。

シーンの移り変わりは、プロットの必然性というより、別の妖怪を登場させるという現実的な必要性によってコントロールされているようなところがあった。その意味で象徴的だったのは、冒頭に置かれた妖怪紹介のくだりである。舞台左手に設置されたオーケストラピットで陽気でノリのいい音楽が奏でられるなか、劇に登場することになる妖怪が次から次へと登場し、軽快なナレーションにあわせて一発芸的な一芸を披露し、そして退場していく。ひとりの俳優が複数の妖怪に素早く変わり身するこのスピーディーな変転はそれ自体としてスリリングであるし、次から次へと現れるたくさんの妖怪を見るのは単純に愉しい。なめ、口裂け、足、学生服を着たへのへのもへじ、子鳴き爺、河童、のっぺらぼう、ぷるぷる、砂かけ婆、雨女、とことんとん、ぽんぽこ、あずきはかり、ろくろっくび。しかし、設定のお披露目ともいうべきこのキャラクター紹介シーンは、プロットを停滞させるし、プロットの進行に不可欠というわけではない。

ヴェルギリウスベアトリーチェに導かれるダンテのように、与太郎は、死神エルメスに案内され、助力者である犬に導かれるなかで、さまざまな妖怪たちと出会っていくのだが、その道行は、目的論的というよりは場当たり的で脱線的なものであるし、自己探求的なものでも教訓的なものでもなく、流されるがままの巻き込まれ型の冒険だ。恐怖と畏怖をかきたてる『神曲』の「地獄篇」とは違って、『妖怪の与太郎』の地獄めぐりはユーモアに充ちたものであり、笑いを誘うものですらある。妖怪たちが、人間にとっての奇妙な隣人だからだろう。怖ろしいものであると同時になれなれしいものであり、得体の知れない魅力的な存在だからだろう。パーティーをしたり相撲をしたり、妖怪同士がじゃれあう姿は、妖怪にたいする親近感をかきたてる。妖怪たちと死神のあいだで勃発する与太郎の魂ボールの取り合い合戦はひたすらコミカルで、喜劇というよりもコントになっている。

2018年の初演のさいに感じた不満――妖怪役の俳優の個性に依拠した内輪の笑い――は解消されていた。三島景太によるドラァグ・クイーン的なパフォーマンスにしても、吉植荘一郎による子なき爺にしても、貴島豪によるコミカルな演技にしても、俳優の個人的な資質に依拠しない普遍的な笑いに昇華されていた。木内琴子の達者な歌唱にしても、 宮城嶋遥加の圧倒的な身体のキレにしても、個人技として浮き上がることなく、個々のシーンの必然性に組みこまれていた。しかし、ひとつひとつ取り出してみれば、完成度の高いシーンが、どこまで劇全体に統合されていただろうか。

シーンが変わると舞台上のキャラクターたちも入れ替えとなるがゆえに、特定の妖怪たちと与太郎の関係が深まっていくことはないし、エルメスとの関係にしても、すれちがう追いかけっこのようなもので、だからこそボードレールやダンテを引用して自らの教養や文化を鼻にかけるエルメスの滑稽さが際立ち、諧謔味が生まれていたのではあるが、裏を返せば、登場人物のあいだの関係がそもそも希薄で、それが最後まで変わらないからこそ、『妖怪の与太郎』の物語はひたすら横滑りしていく。まるで場面のほうが向こうからやってきて、通り過ぎていくかのように。

統合の不在が『妖怪の与太郎』の本質を成す。なるほど、たしかに物語全体を繋ぎ合わせる主筋は前口上で述べられてはいる。なくした魂を探す旅。死んだ与太郎の魂が、紆余曲折を経て、閻魔大王のところに届けられるお話。とはいえ、これは全体をゆるやかにまとめる程度のものでしかなかった。全体の大まかな方向性が示されることで、視聴者は、安全な予定調和のなかに引き入れられ、すでに明かされてしまった劇全体の展開よりも、奇想天外な各場面の出来事のほうに惹きつけられることになっていた。

『妖怪の与太郎』の劇的魅力のほとんどはサブプロットにある。いくらでも拡大可能な劇であり、妖怪たちをさらに登場させ、与太郎の受動的冒険譚をどこまでも伸ばしていけるはずだ。たとえば『千夜一夜物語』のように。それはつまり、メインプロットによるカタルシスが圧倒的に不在であるということでもある。アテレコ役のひとりである小長谷勝彦が、与太郎の道行を助ける犬でもあると同時に、与太郎の目的地である閻魔大王をも兼役していることには、重層的な含意があるはずだが、舞台はそれを掘り下げることなく、場面の美しさと余韻によって終わらせてしまう。

暗闇のなか、ろうそくの光で、ふたりの顔だけが浮かび上がる。ふたりは舞台後方にゆっくりと後退していく。「のんきに暮らせればそれでいい」と与太郎は言う。「あたえてはうしなってなおいぶきかな」と閻魔大王は言う。何気ない日常のかけがえののなさ、そのような日常の永遠の回帰を素直に、素朴にふたりが口にする。あたりまえだった日常が失われたいま、のんきに暮らすことがもはや不可能に近くなり、失った命はけっして戻ってこないことが常態となったいま、最後のふたつのセリフを言葉どおりに受けとることはできないのではないか。しかしドラマトゥルクたちは、もしかするとコロナ禍にたいする演劇的な応答でありえたかもしれないこの幕切れを、あまりにもただ美しい情景にすることで満足してしまっていたのではないか。

悲劇的でない芸術はコロナ禍時代において不可能であると言うつもりはない。悲劇的な時代だからこそ喜劇が必要だろう。しかし、『妖怪の与太郎』のように可塑的な作品には、変化する世界に柔軟に応えていくポテンシャルが備わっているのだからこそ、単なる反実仮想的な言明でも単なる願望充足の表明でもない、しなやかにしたたかな希望を上演すべきではなかっただろうか。チンドン屋のように賑やかな音楽にのせて歌われた「あのよもこのよもこころはおなじ」「しんだあとにもあしたはあった」の合唱には、たしかにそのような希望が込められていたのかもしれないが、それにしても、エピローグという物語外部における付け足しであり、劇のダイナミクスそれ自体にまで及ぶものではなかったのが、かえすがえすも残念である。

映像として考えた場合、ムーバーとスピーカーの分断にしても、音楽隊にしても、うまく画面が捉え切れていなかった部分はある。それは撮影班の不備ではなく、この演出自体が映像による切り取りとそぐわないものであったからだ。宮城の演出にしてもそうだが、俳優が奏者でもあり、言葉の出どころと身体の居所を意図的にズラす演技は、舞台のどこかに意識を集中させるだけは不十分で、舞台全体に意識を広くゆきわたらせなければならない。しかしこの集中と拡散の両立は、観劇者ひとりひとりのリアルタイムな体験としてのみ生起するものであり、映像としてそれを再現しようとすれば、ライブ中継では絶対に不可能だろう。考えられたカメラワークではあった。過不足のないもので、不満を感じることはなかったが、映像と齟齬をきたす演出をとらえきれてはいなかった。しかし、繰り返すが、それは撮影班の落ち度ではなく、舞台の性質の問題だろう。

ライブ中継をどのように締めくくるかは難しい。実際の舞台であれば、幕が下り、拍手が起こり、俳優たちが拍手に応える。カーテンコールがクールダウンとなる。舞台挨拶をすませた俳優たちが退場し、後奏のなかスタッフロールが流れていくさまは、映画でおなじみの形式であり、違和感はない。実際の舞台であれば、パンフレットに記載された文字でしかない、そしてパンフレットをよく見なければ気づくことすらない舞台裏方の名前が、このように可視化されたのは素晴らしいことである。しかしながら、舞台が終わり拍手が起こるまでの沈黙の間、観客たちが劇の余韻から覚めかかりながらまだ覚め切ってはいない夢うつつのまどろみの時、舞台が観客のなかに呼び覚ましたものが劇場を充たしてくあの予想のおよばない一回的な時間こそ、舞台という非日常と日常の両方に属しながら、そのどちらでもない不思議な空間であるのだけれど、それはやはり、無観客の舞台のライブの映像ではどうにもならない代物であるらしい。『妖怪の与太郎』は、コロナ禍時代の舞台の可能性と不可能性の両方を、浮き彫りにさせていた。