うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ウィズコロナ様式の可能性と野外劇:宮城聰演出、唐十郎『おちょこの傘持つメリー・ポピンズ』

20210429@舞台芸術公園「有度」
宮城聰演出、唐十郎『おちょこの傘持つメリー・ポピンズ
舞台のうえには傘屋の仕事場とおぼしきものがポツンと立っている。色とりどりの傘が並んでいる。開いたものが手前に、閉じたものが下手側の天井からぶら下がっている。上手側の一段高くなったところにある机には傘職人のおちょこがいる。開いた傘の後ろで居候らしき檜垣が寝転んでいる。野外劇場である有度の舞台裏にそびえる大きな木のせいで、昭和の匂いをただよわせる舞台装置はやけに小さく、いかにも作り物めいて見えるが、作り物でしかない歴史的時間と、それにシンクロしない自然の風景という不釣り合いな場のなか、事実とゴシップ、虚構と妄想が混ざり合うほどに、なにかとても奇妙で異様な舞台的真実が迫り出してきたのであった。
唐の戯曲は、森進一についての実話――入院中の森の母と親しくなった女性が、森と内縁関係を結び子を生したと裁判で訴え、スキャンダルとなったものの、のちに虚言と判明したというのに、騒動の発端となってしまったことを気に病んだ森の母は自ら命を絶ってしまう――をソースとしているらしいが、森に相当する人物は舞台には登場しない。森のストーカーのような女性はカナという名を与えられ、かなりのところまで実話をなぞっているようではあるが、彼女が現実を逸脱する劇的人物に仕立て上げられていることは間違いない。森の元マネージャーという設定の檜垣がどれほど現実にもとづくものなのかはわからないし、傘職人のおちょことなると、創作にちがいないだろう。とはいえ、唐の戯曲は、現実の出来事に端を発しつつも、それに依存しているわけではないように思う。物語の核心をなすのは、カナと檜垣とおちょこのあいだで渦巻くけっして解決することのない情のドラマだからだ。
芸能人のスキャンダルという生臭いネタを素材にしている一方で、『おちょこの傘持つメリー・ポピンズ』には、アントナン・アルトーだとかテネシー・ウィリアムズ、ウィリアム・シェイクスピだとかミゲル・ド・セルバンテスといった演劇史上のビックネームが随所で言及される。そうかと思うと、歌謡曲的なポピュラーカルチャーが劇の重要な転換を受け持つ。宮沢賢治も重要な細部を成す。ハイとローが入り混じるの唐の戯曲は、観客の知識を試しているようなところがあるが、にもかかわらず、そうした細部を知っていることを観劇の前提条件とはしていないようでもある。知はあったほうがいいが、それだけでは足りない。
かならずしも必然的なものとは言いがたいこれらのレファレンスは、舞台に現出することで、それ自体として屹立するものに変転する。狂気と正気をシリアスかつコミカルに往還する唐の戯曲は、荒唐無稽な寄せ集めになってしまってもおかしくないところだというのに、そこに圧倒的なまでの実在感と迫真性が宿ってしまうのは、舞台における言葉や演技がそもそも論理的な因果律とはべつの必然性によって――それを「情念」と呼んでみたい気に駆られる――立ち現れていくからだろう。キャラクターたちは、語るほどに、動くほどに、ますます情動的となって――しかしそれを「動物的」や「本能的」と呼ぶのはなにか的外れであるような気もする――強度と密度を増加させ、雑多でありながら純粋でもある存在に生成変化していく。
対話は急展開を見せる。トーンが一瞬のうちに変わる。話題は何気なく口にされた単語から突如として横滑りし、横滑りした先で増幅し、増幅したものが再び元の話に還流する。このアナーキックな言葉の増殖運動は、まるで物語の核心に触れることを怖れる生理的な防衛反応であるかのようだ。核心にあるもの、それは、「恋」や「愛」というありきたりの言葉では名指すことができない、圧倒的に不合理でありながらどうしようもなく絶対的な衝動、存在の中心を占めながら、全体を破滅的に(しかしそこに歓びがないわけではないかたちで)侵食していくような力だ。それは、言葉の字面通りの意味には収まりきらないもの、話の調子、体の振舞にあふれ出していくものである。俳優たちはいわば言葉を意味あるものとして発話しつつ、そこで意味されているもの以上の意味、言葉の意味とかならずしも呼応するわけではないべつの意味を上乗せていていくというアクロバティックな引き裂かれを強いられることになる。
宮城の「言動分離」スタイル(二人一役)は、アングラ演劇の場合、一人二役――ひとりの俳優が自らの言葉と身体をそれぞれ相対的に自律させる――へとゆるやかな変化を見せるが、それがさらに今回は、「ウィズコロナ様式」へと昇華されていた。それを宮城は「新古典主義様式」――あたかもラシーヌを演じるように唐十郎を演じる――と呼んでいる。一昨年に再演された『ふたりの女』でもすでに実践されていたことではあるが、対話を繰り広げる俳優たちが、正面を向いたまま、向かい合うことなく言葉を投げかけるという、二次元的で活人画的なスタイルが押し進められた結果、檜垣がカナの首を絞めるシーンでは、カナが自ら首を締め、その隣で檜垣が両手を突き出して虚空を握りしめるという情景が繰り広げられることになる。それはきわめて奇妙な絵図ではある。檜垣はカナの首を絞めていると口にするが、実際には締めてはいない。カナは檜垣の手にやさしさを感じるともらすが、彼女の首にかかっているのは自分の手である。しかし、だからこそ、ここでは精神分析的なドラマ、否認しないわけにはいかない本心の欲望と肯定しなければならない抑圧された現実との亀裂が痛々しいまでに表面化する。濃厚接触を避けるという非演劇的な要請が、唐十郎の戯曲の本質を抉り出すためのメソッドに昇華されており、『おちょこの傘持つメリー・ポピンズ』の狂おしい情念、かなうことのない望みのもどかしさが、具体的に体現されていた。
とはいえ、この新古典主義様式は、微妙に不徹底でもあった。ところどころで俳優が向き合ってしまっていたからである。たしかにそうしたコンタクトは演者としての必要性の結果であったのだとは思う。前方に投げつけられた言葉に間接的に反応すること、共演者の身体の存在感を隣に感じながら自らの存在感をそれに並べること、しかし、それらのエネルギーを相手に直接にぶつけることは原理的に禁じられている状況――それはあまりにも俳優の生理に反するものであったのだろう。
そのようなわずかな踏み外しはあったものの、愚かな純真さと怖ろしいしたたかさを瞬時に交代させ、生身の女であるとともに神話的な女の両方を体現していたカナ(たきいみき)、諭すような言葉とそれを裏切るような身体の情動を舞台後半のダイアログのなかで解放していった檜垣(奥野晃士)は見事な演技であった。滑稽な言葉を語りながら、身体のほうではつねに哀しみと健気さを体現していたおちょこ(泉陽二)は、ふたりにくらべるとすこし線が細く、また、狂言回し的なおちょこの役回り上、実際以上に上滑りしてしまっている部分もあったが、彼の体当たりな演技があればこそ、本劇の基調をなす現実から仮想への飛翔、リアルのすぐそばに開けている夢の空間である深淵や虚空へのダイブが、劇後半においてあれほどの存在感を持ちえたようにも思う。
2時間にわたって雨は止むことがなかった。それこそが非日常体験である野外劇の醍醐味ではある。雨という自然の圧倒的な力にたいしてわたしたちがいかに無力であるかを感じさせられたし、俳優たちの声にとっては厳しい状況であったことはまちがいないだろう。冒頭はこちらが慣れていなかったせいもあり、セリフを聞き取るのがかなり難しく、英語字幕を横目でみながらどうにか芝居の筋を追いかけるしかなかったが(後ろのほうに座っていたせいもあっただろうが、はたして観客席前方だったら声はすべて聞こえたのかどうか)、雨だからこそ、逆に舞台に集中できた部分もあったように思う。実際、どういうわけか、劇が進むほどに声が響いてきて、舞台の迫力がいつにもまして伝わってきた。
『おちょこ傘持つメリー・ポピンズ』は混沌のうちに終わりかける。森の母の死体を掘り起こすことを画策していたらしいカナを連行する係として登場した保健所職員たちは、京劇役者のような仮面と踊りで立ち回りを演じる、俳優たちが森の写真を仮面のように顔にかざすと、もはやこれが現実のシーンなのか、誰かの空想が上映されているのか、わからなくなってくる。森のスキャンダルの終わりとなるのは、銃で撃たれて息絶える檜垣である。狂乱のなか、カナは檻に入れられ、犬のように引かれていく。
舞台は暗転し、すっかり暗くなった野外舞台のうえで、傘屋の仕事場のセットがゆっくりと回転を始める。銀色の壁や屋根が、照明に照らし出され、妖しく光る。雨が光を乱反射させ、金色に輝きだす。それは先ほどの混沌を癒すかのような静謐さである。
セットがふたたび正面を向くと、そこにはおちょこがひとりたたずんでいる。畳のうえに広げられているのは、檜垣のジャケットだ。彼の死を悼むかのように、檜垣がカナから贈られながらあえて吸うことがなかったハイライトに火をつけ、それを供えるように、そこにはもういない檜垣の口にもっていく。おちょこが檜垣のジャケットを右手にかかえ、まるで彼がまだそこにいるかのように、ふたり分のからだを、カナのために修理した傘で浮かびあがらせようとする。おちょこは「飛んだ」と言う。もちろん彼らは飛んでなどいない。しかし、同じ女に惹かれた者同士の連帯というにはあまりにも甘美な、ホモソーシャルというよりはホモエロティックな抒情を発散させながらおちょこが銀色の傘をかかげ、舞台が再び暗くなっていくとき、彼らはたしかに飛んでいた。