うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

作為なき作為:フリッツ・ライナーの音楽の正しさ

フリッツ・ライナーのような指揮者はもう出てこないのではないか。ショーマンシップの真逆をいくような、魅せない指揮だ。オーケストラ奏者を従わせる指揮だが、聴衆を酔わせる指揮ではない。そこから生まれる音楽は峻厳で、諧謔味はあっても、陽気に微笑むことはない。悲劇的でもなければ、ドラマティックといううわけでもない。ただひたすらに正しい音楽。

 

ライナーの指揮動作はミニマリスト的だ。とても長いやや太めの指揮棒を右手で握り、拍子を刻むだけだが、単純な動きのなかに多種多様なニュアンスが込められている。左手は基本的に使わない。添え物程度だ。もちろん、決め所では大きく体が動くし、左手も振り上げられる。けれども、美食家でもあったせいなのか、堂々とした樽のような身体は、いつもまっすぐにどっしりと指揮台のうえにそびえている。

眼力でオーケストラを掌握している。存在のオーラで全員をねじ伏せている。静かだからこそ怖ろしいまでの迫力がある。

しかしその指揮は決して一本調子なものではない。ライナーの音楽にはつねに不思議なタメやかぶせがある。インテンポを基調とした楷書体で、軸は決してブレることがないのだけれど、恒常的な流れを妨げない微妙なズラしがある。同郷人の後輩にして、のちにシカゴ響で長期政権を築くことになるショルティが、鋭角的なアタックによって縦線を瞬間的に揃えようとしたのとは裏腹に、ライナーの音の合わせ方には幅がある。音楽的な呼吸が音の出入りをつかさどっている。

だからライナーの音楽は、厳めしくはあるけれども、息苦しくはない。凛としてはいるけれども、のびやかさに欠けることはない。

 

ライナーほどオーケストラに恐れられた指揮者も稀だが、録音には恵まれた。というよりも、今日ライナーが記憶されているのは、RCAによるシカゴ交響楽団とのレコーディングの突出した音質の良さによるところが多分にあるのではあるまいか。

録音芸術としてのライナーの音。

それほどまでに50年代の初期ステレオ録音は超時代的である。音の分離がよく、混濁することがない。音の定位がよく、どこかの音域が不自然にブーストされているようなことがない。生の音がすぐそばで鳴っているような(しかし、コンサートホールで聞こえる音そのままでもない)録音ならではのリアルな聴取感がある。

ライナーが育てたシカゴ響というヴィルトゥオーゾ・オーケストラだからこそ、このような音として記録されているのだろうけれども、ライナーとシカゴ響とRCAはあまりに強固な三位一体なので、ライナーをRCAの録音技師の音から切り離して考えることは困難だ。

あまり数は多くないが、ライナーのライブ録音はあるし――たとえば伝説的なコヴェントガーデンとの『トリスタンとイゾルデ』や、メトロポリタン歌劇場との『フィガロ』や『ばらの騎士』、ウィーン国立歌劇場との『マイスタージンガー』――、他レーベルとの録音もある――DeccaによるVPOとのヴェルレク、Reader’s DigestによるRPOとのブラームスの4番。それらを聴けば、明確なアタック、見透しのよい響き、正確なリズムとクリーンな歌い回し、きらめくような打楽器の響きと豊かなグラデーションのある墨絵のような陰翳が、録音の魔術による捏造ではなく、ライナーという指揮者に帰属する特性であったことがすぐにわかるのではあるのだけれども、ライナーとシカゴ響の音は、たとえばPhilipsによるハイティンクとコンセルトヘボウの音のように、Deccaによるショルティウィーンフィルの音のように、Gramophoneによるカラヤンベルリンフィルの音のように、複製技術の産物であることも否定できないように思う。

 

1888年生まれのライナーは、クレンペラー(1885年生まれ)、フルトヴェングラー1886年生まれ)、エーリッヒ・クライバー(1890年生まれ)の同時代人であるけれども、録音されたレパートリーだけから見ると、その音楽的な立ち位置は測りがたい部分がある。

バルトーク1881年生まれ)の同郷人であり、リスト音楽院でバルトークコダーイに学んでいるし、亡命先のアメリカで窮乏したかつての先生に新作を委嘱し、録音も残している。スペインからロシアまで、フランスからイタリアまで、ヨーロッパ各国の主要作曲家の主要レパートリーを録音している。

しかし、バルトークを除けば、いわゆるモダニズム的な作曲家の録音はない。新ウィーン学派が発展的に継承したマーラーの録音はあるけれども、4番と『大地の歌』というチョイスは、不可解な感じがする。歌ものの伴奏という位置づけだったのだろうかという気がしてしまう。

どの録音もきわめてクオリティが高いせいで、ライナーのレパートリーを貫く美意識が見えてこない。オーソドックスで保守的であるようにも見えるし、そうでないようにも見える。

ライナーに傑出した職人的手腕があったことはまちがいない。政治力には欠けていたようだが、オーケストラビルダーとしては優秀であったし、伴奏もうまい。オペラ指揮者でもあった。ライナーはドレスデン歌劇場で指揮者を務めたあと、1920年代初頭からアメリカでのキャリアを歩み始めており、純粋な音楽的力量にもとづく採用を旨とするライナーのオーケストラでは、女性奏者の割合が他のオーケストラより目に見えて高かったという。

しかし、残されている正規録音から聞こえてくるライナーの音楽はあまりにも純音楽的だ。楽譜に語らせる系の演奏であって、恣意的な解釈を披露するものではない。

 

ライナーの音楽は、録音されて70年以上がすぎているにもかかわらず、不思議なほどに古びていない。バルトークリヒャルト・シュトラウスの録音は依然として黄金のスタンダードであるし、その確固たる地位が脅かされることはないだろう。それほどまでにライナーの音楽は正しく聞こえる。

もちろん単純な精度という意味でいえば、ライナーを凌駕する録音はいくらでもある。ライナーの音楽の精度はどこまでいってもアナログ的なものであり、デジタル的なゼロコンマの精度とは桁がちがうところがある。

ライナーの凄みはそのような単純な音の合い方にはない。おそらくシュトラウスバルトークのような音の多い複雑なスコアの音楽よりも、モーツァルトハイドンのような音の少ない単純なスコアの音楽にこそ、ライナーの美質が現れている。古楽器演奏を経た今、ライナーによる古典派の演奏が旧時代的なものに属することは否定できないが、たとえそうであるとしても、ライナーの演奏からほとばしる生命力、生き生きと弾むリズムと趣味の良い抒情性、重層的でありながら軽やかな見透しには、知識的な正しさとは別物の音楽的な正しさが呼び覚ます自然な心地よさがある。

作為なき作為。

 

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