うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

戦略的ハッピーエンドの演出的なアンハッピーエンド:ジョルジオ・バルベリオ・コルセッティ演出『野外劇 三文オペラ』

20210425@駿府城公園 東御門前広場 特設会場
ジョルジオ・バルベリオ・コルセッティ演出『野外劇 三文オペラ
4月末の18時は夜というにはまだ明るい。かといって昼の光が残っているわけでもない。中途半端な狭間の時間、ただっぴろい灰色の広場の中央奥に、黄色のショベルカーが異様に鎮座している。これから2時間のあいだ束の間の舞台となるはずの広場を現実世界の歩道から隔てるのは、黄色と黒のツートンカラーのロープがはりわたされた杭だけだ。ぼろきれのような色のあせた長いコートをまとった人々が、生気なく、ひとりまたひとりと、ロープの向こうやってきは、寒そうに地べたに横たわっていく。そして、本来ならソロで歌われるはずの「刃(ヤッパ)のマッキーのモリタート」の合唱とともに、ジョルジオ・バルベリオ・コルセッティ演出『野外劇 三文オペラ』が始まる。
観客はすでに微妙な境界に置かれている。俳優たちはまるで現実のホームレスのようなたたずまいで登場する。コートを脱ぎ捨てた役者たちは、色とりどりの衣装で自らがかりそめの存在であることを主張するものの、そのけばけばしさは、田舎の成人式やキャバクラの気合の入った悪趣味さを思わせる。箱乗りで車を乗り回したり、軽トラの荷台に乗って去っていくマックヒースの部下たちはハレの日のやんちゃぶりを、スクーターにまたがるピーチャムやママチャリをこぐピーチャム夫人は卑近な生活感を彷彿とさせる。しかし、ところどころでさしはさまれるソングやダンスが、舞台特有の不自然さを思い出させる。歌が始まると、上手にそびえる大きなスクリーンには、意図的にチープでポップな映像が再生される。すべてが虚構であることは繰り返し告げられる。にもかかわらず、観客は、これがたんなる嘘であるとは言い切れない。目の前で生起していることを現実から切り離して安全な距離を取り、作り物として快適に無頓着に愉しむことができない。奇妙な居心地の悪さが続く。
1928年に初演されたブレヒトとワイルの『三文オペラ』は、18世紀初頭の『乞食オペラ』の本歌取りのようなものだが、21世紀が5分の1過ぎたいまなおアクチュアルである。スペクタクルとしての乞食ビジネス、悪辣ながらどこかゲームめいた犯罪稼業が劇的素材として扱われているが、それらは、社会のアンダーグラウンドの深淵を引きずり出すためではなく、社会に遍在しながら表面化しない闇を照らし出すために、わたしたちのすぐそばにありながら、だれもあえて見つめようとはしないもの、良からぬことであることは知りつつ、悪と名づけるべきものであることは理解しつつ、わたしたちがあえて事を荒立てようとはしないものを抉り出すために、利用される。
「乞食の友社」のオーナーのピーチャムにしても、半グレ的な若者犯罪集団を率いるマックヒースにしても、絶対的な大物の悪役ではなく、犯罪者のなかの中流階級とでも言うべき、ちんけな小物である。だから、彼らの物語は、ピーチャムの一人娘であるポリーの結婚と、それに付随して起こる財産や経営の主導権争いといった、きわめてブルジョワ的なテーマを軸に展開していくことになる。そこで用いられるのは、暗殺のような直接的に暴力的な手段ではなく、密告と脅迫という間接的な言葉の暴力、しかし、ストレートではないからこそ、肉体的な暴力よりもよほど陰険で陰湿でもある策略である。『三文オペラ』では、ヴェリズモ・オペラでお馴染みの刃傷沙汰や流血沙汰は場違いである。
それはソーシャルディスタンシングと濃厚接触禁止を強いられる現在、僥倖と呼ぶべきことかもしれない。喧嘩のようなものが舞台で演じられないわけではないが、肉体的接触は舞台下手の音楽隊の効果音によって代替される。殴ったり蹴ったりするフリにかぶせられた打撃音が暴力の表象となり、『三文オペラ』にもとから仕組まれていた白々しさをことさらに強調していく。
コルセッティによる演出の巧みさはソングのさいのスクリーンの活用にあった。千田是也が言っていたのか岩淵達治が言っていたのかは忘れてしまったが、ブレヒト劇における歌は、内面告白のためには使われない。歌は劇を説明しない。むしろ、歌は物語の時間をストップさせ、宙吊りにされた時間のなかで、劇的世界の別の側面をクローズアップする。コルセッティのスクリーンは、耳なじみのよいメロディーにのせて歌われるがゆえに、ややもすると聞き逃してしまいそうになる歌詞の意味内容を効果的に可視化することで、『三文オペラ』の背後にうごめく多様な暴力のかたちをわたしたちに突きつける。
マックヒースが娼婦宿で歌うヒモ時代の回想歌では、DVの記録写真にほかならないアザだらけの3人の女の顔が大写しになる。そのような顔の傷がメイクによる特殊効果にすぎないことを、観客は知っている。にもかかわらず、そのように作られた虚構の暴力の痕跡は、観客をたじろがせずにはおかない。なぜなら、そのような暴力がわたしたちの隣人であることを、わたしたちの多くが、日常のなかでは見て見ぬふりをしているからだろう。現実の闇は身近にあるということを、コルセッティは、加工された作り物のイマージュを用いて、わたしたちに迫る。しかし、あくまで、非強制的に(というのも、スクリーンから目を背けることを観客は選ぶことができるから)。
時間の制約あってのことか、演出家はオリジナルから女同士の争いのプロットをカットしていた。本当ならマックヒースの正妻の座をめぐってポリーとルーシー(と娼婦のジェニー)が鞘当てを繰り返すが、ここではルーシーは存在すら抹消され、ジェニーは3人の娼婦に分割されていた。その結果、『野外劇 三文オペラ』では、男たちの対立が前景化される。一方に、同情や共感という倫理を内面化するかどうか――マックヒースとピーチャムにとって、他者への配慮は操作可能な手段でしかないが、マックヒースの戦友にして警視総監であるブラウンにとって、心理的な負い目は払拭不可能な借りであり重荷である――があり、他方に、ポリーをめぐる物語――マックヒース対ピーチャム夫妻、それから、ほとぼりが冷めるまで雲隠れすることを決めたマックヒースから後を任されたポリーがマックヒースを喰ってしまうという展開ーーがある。仕方のないカットだったのかもしれないが、ブレヒト=ワイルにおけるジェンダー間の権力関係は簡略化されてしまっていた。しかし、その一方で、ジェニーを3人の匿名的娼婦へと複数化することで、マックヒースの暴力の問題性を増幅するとともに、彼女たちを『マクベス』の魔女たちのような超常的な存在に仕立て上げていたとも言える。
大岡淳の翻訳が、チャラさと真面目さを奇跡的なバランスで釣り合わせているからこそ、俳優たちの下ネタの演技の中途半端さが逆に目立ってしまっていた部分はある。とくに冒頭の婚礼シーンは、いまひとつ場が暖まっていないかったせいか、上滑りしていたきらいがある(下ネタをそれなりの格式を保って演じることの難しさが浮き彫りになっていた)。その一方で、ソングのほうは、コルセッティの映像演出の助けもあって、大岡の歌える翻訳の見事さが素直に響いてきた。
とはいえ、本職の歌手ではない俳優たちの歌には出来不出来があった。ポリー(森山冬子)の「海賊ジェニーの歌」は黙示録的な背筋を凍らせる怖ろしさを表出しきっていたし、ピーチャム夫人(葛たか喜代)は、歌としては達者ではなかったかもしれないし、甲高い金切り声を耳ざわりと捉える向きもあるかもしれないが、性格描写としてはきわめて秀逸だった。酒場のジェニー(榊原有美、鈴木真理子、篠原和美)は、歌として満足のいくものだった。しかし、その一方で、男性陣の歌は、可もなく不可もなくという感じで、マックヒース(後藤英樹)にしてもピーチャム(廣川三憲)にしても、過不足ないものではあったものの、特筆すべき点がかったように思う。そのなかでは、ブラウン(柳内佑介)が飛び抜けて安定した歌いっぷりではあった。
歌がいまひとつ響いてこなかったのは、野外の舞台が広すぎたせいもあるかもしれない。稽古はすべてZoom経由のことで、SPAC芸術総監督の宮城聰が列席していたとはいえ、会場の空間の広がりというきわめて感覚的な部分については、埋められないズレが残ってしまったのだと思う。しかし、それよりもズレていたように感じたのは、別のところだ。
三文オペラ』の演出上の一大問題は、ラストの意図的に不自然なハッピーエンドである。マックヒースは絞首刑になる。ここで活躍するためにショベルカーが舞台装置として置かれていたわけである。牢屋に入れられていたマックヒースは最後に捨て台詞的な演説をぶち上げる。ちんけな泥棒稼業よりも銀行業のほうがよほど大罪でしょうよ、と。しかしそのニヒルな訴えも虚しく処刑は執行されるのだが、それが、ひっくり返される。そのほうが初演当時の観客であるブルジョワ好みだから、という理由で。ここには壮大な皮肉が仕組まれている。白々しい茶番こそ、ブレヒト=ワイルが意図したものだろう。必要以上に仰々しい荘厳な音楽がこのシーンに割り当てられているのだから。しかし演出家はこの箇所をあえてシリアスに、シリアスすぎるほどに表象してしまっていたように思う。
最後のナンバーを合唱しながら、俳優たちは、息絶えるように地面に横たわっていく。照明が役者たちを照らし、消えていく。スペクタクルの始まりが微妙にかたちを変えて再起する。冒頭ではみなが同じようなホームレスめいたコートに身を隠していたが、結部では、それぞれの衣装のまま横たわる。「不正を追及するな」という痛烈な軽口ではなく、「嘆きが響いているよ」という痛切な言葉が、暗くなる照明とともに、舞台を沈ませていく。
それはたしかにひとつの見識ではあった。このシーンに先立つ馬上の使者の下り――アンハッピーエンドに終わったはずの劇をハッピーエンドに変える力業の導入――では、昭和の特撮アニメ的な、ゲームボーイスーパーファミコン的な趣あるチープなCG効果を巧みに利用していた。スクリーンには駆ける馬の動画が映し出され、その前に置かれた梯子にまたがって身体を前後に揺するというのは、単純でありながら、きわめて効果的ではあった。しかし、そうした軽やかな小技が、「嘆き」に絡めとられてしまった結果、コルセッティの『三文オペラ』は、良くも悪くも、良心的左翼のイマージュに吸収されてしまっていたようにも思う。
現実ではこのようなことは絶えて起こらない。だからこそ、これを「あえて」起こさせるところに、ワイルとブレヒトの批判意識が集約されているのではないか。カーテンコールのなかオンラインで演出家が登場するというのは、たしかに、心憎い演出ではあった。しかし、コルセッティの演出のヒーローは、結局のところ、良心の呵責にさいなまれるブラウンではなかっただろうか。同情や共感を倫理ではなく戦略に還元するピーチャムやマックヒースこそが、『三文オペラ』の問題性であり、ポストモダンニヒリズムではなかっただろうか。そのあたりがどうにも惜しい舞台であった。