うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

デフォルメする権利:ブルーノ・マデルナの異形の音楽

ブルーノ・マデルナの演奏は異形としか言いようがない。これほどデフォルメした演奏は稀だ。突然のスローモーション、突然の加速、特定パートの誇張、濃厚なカンタービレ

それらはおそらく、場当たり的なものではない。楽譜分析にもとづいた理知的なものであり、その意味では、方法論化された、それゆえ反復可能な恣意性なのだと思うけれど、そう考えてみたからといって、マデルナの演奏の驚くべき特異性が薄まるわけではない。

 

興味深いのは、マデルナが指揮もする作曲者であったという点だ。自らもスコアを書く人間が、他人の書いたスコアの指示に従わない、または、スコアに書かれてはいないことがあるはずだという態度を取るというのは、なかなか自己矛盾的な行為ではないだろうか。

それは、スコアがすべてはないという意志表明でもあれば、ジャック・デリダが言うところの西欧文明における音声中心主義(書かれたものであるエクリチュールにたいする不信)にたいする賛同なのかもしれない。

とはいえ、なぜデフォルメが許されないのかと改めて問い直してみると、意外とその問いにすんなりと回答できないことにも気づく。デフォルメしてはいけないと言うことは、作曲者の権威を絶対化することでもある。演奏家を作曲者の奴隷にすることである。演奏家の自由や自発性を許さないことである。

しかし、では、演奏家の自由は、どこまで許されるのか。演奏家の使命は何なのか。

演奏する作品の作曲者の意図なるものの伝達なのか、スコアそのものの音化なのか、それとも、演奏家自身の表出なのか。

解釈学的な難問が頭をもたげてくる。

 

マデルナのレパートリーは独特であるように思うけれど、それは、残っている商業録音が偏っているだけなのかもしれない。マーラーは準全集と呼べるくらいにはある(1番2番4番8番、それに大地に歌は欠けている)。ベルクのオペラは『ヴォツェック組曲と『ルル』の録音がある。シェーンベルクの主要オーケストラ作品。ラヴェル。20世紀前後が主要レパートリーかと思いきや、モンテヴェルディの録音――『オルフェオ』や『ポッペアの戴冠』の抜粋――もある。スカルラッティのオペラ録音もある。ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』が録音予定にあったとArkadiaのリーフレットに書いてあった。

しかし、これらがマデルナの音楽的系譜の真実の表現なのかというと、どうも疑わしい気もする。マデルナの指揮業は、ピエール・ブーレーズほどには、独自の音楽系譜学の表明ではないような気がする。

 

そう感じる大きな理由は、マデルナの指揮が、きわめて情動的だからだろう。ブーレーズの音楽が、情に流されない冷静な知の静止画を提示しているとしたら、マデルナは、まさにイタリア・オペラ的な、情動の音楽を作り出す。

ねっとりとした歌いまわし、音の流れの官能性。

しかしそれは、特定の誰かと共有された共同的なものではないような気もする。ジャンル的な、ステレオタイプ的なところはあるけれども、具体的な歴史的潮流には還元できない(この点において、マデルナは、彼の指揮法の先生のひとりであったヘルマン・シェルヘンとは一線を画するように思うのだけれど、それはつまり、シェルヘンの恣意性が、20世紀前半の表現主義という共同的な潮流の個別的表現ではなかったかと思うからである)。個人的に方法論化されてはいるとはいえ、相続者はいないし、おそらくこれからも、現れないだろう。

Arkadiaから出ている海賊版(だと思うが)のMadernaシリーズの解説書によれば、マデルナの演奏予定には、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』が入っていたという。マデルナの早世が悼まれるが、ひどく暴飲暴食な生活だったという話を聞くと、それもまた、彼の生の当然の帰結だったのかとも思う。

マデルナの録音――個人的には彼の2幕版の『ルル』の録音は乗り越え不可能なものだと思う、というのも、そこでは、プッチーニ的なものが新ウィーン楽派的なものと完全に融合しているから――は、歴史の袋小路であると同時に、決して再起しない特異な到達点である。

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