うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

「わたし」を理解すること、理解してもらうこと:増田雄の『私』、関根淳子の『わたし』

「わたし」を理解すること、理解してもらうこと――それが『わたし』の核心にある主題だ。増田雄が2016年に執筆した『私』を脚色した関根淳子の『わたし』は、関根が言うように、「当事者演劇」と呼んでいいものなのだろう。原作者の増田はADHDであり、関根はアスペルガーであるという。この劇のなかで描き出される「わたし」の生きづらさは、ふたりの実体験にもとづくものであるし、同時に、「ADHD」や「アスペルガー」と診断される人々の生の反映でもあるのだろう。

 

しかし、ここでふたりが投げかける問いかけ――「マニュアル」に合わせることで「普通のひと」扱いしてもらえることは、本当に「わたし」にとって好ましいことなのか――は、すべての人にあてはまる問題でもある。「ありのままのわたし」は、望みであり、呪いでもある。社会の声に従って自分(の一部)をマニュアル化することは、社会のなかで「普通」に生きていくために必要ではあるけれど、マニュアルによって理解されることは、憐みに充ちたものではないのか。「配慮してあげる」、「受け入れてあげる」という上から目線の寛容さは、「わたし」の尊厳を傷つけるものではないのか。

 

「ありのままのわたし」を肯定できず、かといって、「マニュアルのわたし」という仮面を心のそこから抱擁できない。どちらも選べない。どちらを選んでも、生きづらさは完全にはなくならない。そのとき、どのようなべつの可能性がありえるのだろうか。関根版『わたし』はそのような不可能な問いにたいするひとつの回答を提示しようとしている。

 

 

アフタートークによれば、増田が『私』を執筆したのは、精神保健福祉士からの依頼がきっかけであったという。しかし、「発達障害を新人にわかりやすく説明する芝居を」、「教科書で学んだことと現場で出会うことのギャップを埋めるようなものを」、という依頼に、増田は困惑することになる。考えるほどに、マニュアル的な理解――発達障害をひとくくりにして型にはめること――の問題性が浮上してきたからだ。こうして増田が作り上げた劇は、発達障害のわかりにくさ、発達障害を抱えるひとりひとりの問題のユニークさそれ自体を、クローズアップするようなメタ的なものになっている。

 

増田の『私』を見たことがないので、あくまで推測でしかないが、関根の『わたし』は、男声主人公から女性主人公へのジェンダーの変更以上の違いがあるように思う。それはおそらく、アフタートークで増田と関根が、「普通になる」ことと「わたしらしくある」ことを、微妙に異なったグラデーションに据えているからではないだろうか。増田にとっての問題は、「わたしらしくある」ことではなく、「普通になる」ことである。それはつまるところ、「わたしは誰?」という自己のアイデンティティの危機ではなく、自己の社会性をめぐるプラグマティックな問題系に属するものだろう。

 

 

 

 

 

しかし関根のパフォーマンスでは、「普通になる」ことと「わたしらしくある」ことが、つねに宙吊りにされている。「普通になる」ことは「わたしらしくある」ことの否定であるが、さりとて、いまの「わたし」――キモい踊りを踊ってしまう、周りから浮いてしまう、「あたまよくない」、「皆みたいにできない」、「できそこない」――を肯定することもできない。だから関根版は、素の「わたし」でも、マニュアルの「わたし」でもない、第三の「わたし」の探求に向かうのである。それはいまここにある社会との和解ではなく、いまだない居場所の想像と創造を夢みるものである。

 

 

『わたし』は暗闇のなかで膝を抱えてうずくまるシーンから始まる。アパートの1室であることがじきに判明するが、それはまるでチェーホフの演劇世界のようでもある。アパートは社会の少数者たちの生活の縮図であるかのようだ。

 

ひとり芝居である『わたし』は、「マニュアル」の象徴であるバインダーをのぞけば、ほとんど小道具も大道具もなく、関根による語りとパントマイムによって進んでいく。しかし、暗い部屋のなかというよりは、床も底もない虚空のなかに浮かぶ「わたし」のもとに、「更新されたわたし」が尋ねてくると、劇は突如として、一人二役の会話劇に移行する。

 

この意味で、『わたし』は、ドッペルゲンガーものだ。E・T・A・ホフマンにつらなる物語系譜に属するものであり、だとすれば、この芝居をフロイト的に読解することも許されるかもしれない。

 

『わたし』には3人の「わたし」が登場する。周囲とズレてしまいキモがられてしまう現在の「素のままのわたし」、周囲にうまく受け入れてもらえる「普通」らしい未来の「マニュアル的わたし」、そして、妄想の世界にただよう過去の子どものころのお話し作りが好きな妄想癖のある「わたし」だ。そして、この複数の「わたし」のあいだで、自己の生存をかけた対話的闘いが繰り広げられていく。

 

自己評価も自己肯定感も低いダウナーな、相手との距離感がつかめなくて他人に依存してはフリーズして引きこもってしまう、「得体のしれない怖さ」にとらわれている「素のままのわたし」は、未来からやってきた周囲に受け入れてもらう術を身につけた「マニュアルなわたし」の詐欺師めいた口上に疑いを抱きつつも、次第に説得され、絡めとられてしまう。「マニュアルなわたし」に抱きすくめられた「素のままのわたし」は、自己を社会に受け入れてもらうための処世術を伝授され、バイトも恋愛も順風満帆、彼氏の母に紹介してもらえるところにまでこぎつける。

 

「マニュアルなわたし」は超自我のようなものだろう。社会的規範であり、それを内面化することで、「わたし」という自我を見る周囲の目が変わるのである。しかしそれは、内面の自我よりも、社会が評価してくれる外面を上位に置くことでもある。

 

しかしまさに彼氏の母のもとを訪れようというその日に、自我を押し殺して超自我に自らを同化させようというそのときに、「素のままのわたし」という抑圧されたものが回帰してくる。マニュアルはたしかに「わたし」を理解できる存在に、理解してもらう存在に翻訳してはくれた。「わたし」はみんなのようになれたし、みんなも「わたし」のことを認めてくれるようになった。しかしそれは、「わたし」が理解されたことなのか。それとも、「わたし」を翻訳可能なものに仕立て上げた「マニュアル」のおかげなのか。みんなが理解しているのは、わたしというかけがえのない存在なのか、それとも、わたしにもほかのだれかにも当てはまる「マニュアル」という十把一絡げの代物なのか。

 

自我と超自我の2度目の対面は、1度目のような平和的なものにはならない。格闘になる。超自我が自我を押しこめようとする。それは肉体的な取っ組み合いにほかならない。超自我が勝利を収めたように見える。「わたし」を押し殺し、「普通らしさ」を獲得することで、待望の倖せが手の届くところにやってきたかのように見える。しかしそのとき、自我以上に抑圧され、忘れられていた無意識の欲望が回帰してくる。人魚姫をめぐる妄想的な物語が芝居をハイジャックしていく。

 

 

人魚姫の物語は示唆的だ。人魚は愛する王子ともういちど出会うために、みずからのかけがえのない宝物である声を犠牲にする。しかし、それは、人魚が王子と同じ人間になるための必要条件ではあるものの、王子によって愛されるための十分条件ではない。犠牲は報われるとはかぎらない。そして人魚姫の犠牲は、報われることがないのである。

 

しかし、それでは、人魚姫の犠牲は無駄なのか。無意味なのか。おそらく関根版の『わたし』のすべてはこの問いに賭けられている。

 

人魚姫の姉たちは言うだろう。恋愛に依存してはいけない。海の世界にとどまればいいじゃない、なぜあえて自分の居場所ではない陸の世界に行こうとするのか。いまの居場所を捨てたからといってあたらしい居場所が見つかる保証もないというのに。姉たちの言葉は正しいだろう。彼女たちは、いわば、健常者の代弁者であると同時に、マイノリティのなかのマジョリティの超自我であるようにも聞こえる。それは、アフタートークのなかで関根が述べていたように、フェミニズム的な自我でもあるのだろう。男にも恋愛にも依存しない、自律した女の可能性でもある。

 

姉たちの言うことは正しいだろう。にもかかわらず、人魚姫は、「わたし」は、その正しさを抱きしめることができない。ひどい痛みを覚えながら、新たに生やしてもらった足で、よたよたと、おかしな踊りを踊るように陸を歩いていき、そして、王子さまはすでに婚約していたことを知るのだ。

 

しかしそれでも、関根の人魚姫=「わたし」は、相手を、王子もその婚約者をも、呪うことがないだろう。彼女が全身で抱きしめるのは、報われることのない王子への愛だけではない。それは世界の美しさの抱擁だ。自分を受け入れてはくれない世界を、にもかかわらず、「わたし」たる人魚姫は愛すると宣言するのである。

 

海からも陸からも放逐された人魚姫たる「わたし」は、そのどちらでもない世界にひとり沈んでいくことになる。依って立つ「地面」のなさ、ふわふわとした浮遊性をネガティブにとらえてきたこの芝居において、無限落下はこのうえなく不吉なベクトルではあるけれども、まさにその底のない奈落にむかうフリーフォールのなかで、「わたし」はいまいちど、子どものころの物語好きな自分という無意識的な欲望を発見する。

 

それは、いまあるそのままの自分でもなければ、マニュアルによって引き寄せられる来るべき自分でもないし、かつてあったイノセントな自分の肯定でもないだろう。過去の無垢な無意識な欲望を受け入れることは、逆説的ながら、過去の楽園に引きこもることではなく、未来の可能性にみずからを開くことであるらしい。海でも陸でもない新たな世界を想像し創造することは、マニュアルの安定性とは真逆の不確定性の危うさのほうに浮上していく動きであるようにも見える。

 

 

ここには何ともいえない危うさがあるだろう。いまだない世界の可能性が夢みられているからだ。だからその表象が、言葉でもイメージでもなく、踊りによって表象されるのは、当然かもしれない。暗い舞台に、海を思わせるように青い光がかぶせられ、ドビュッシー的な音楽のなか、関根が舞い出すとき、そこには、メーテルランク的な象徴劇や、夢幻能のようなニュアンスがただよい出す。

 

それは現実的な問題を芸術的に棚上げすることであるようにも見える。想像/創造される「新しい世界」は、マイノリティのためだけの世界なのだろうか。それとも、マジョリティとマイノリティが、「してあげる」というような上下関係ではなく、「ちがい」を(病理や問題としてではなく)個性や多様性として抱擁する水平的な連帯の世界なのだろうか。それとも、まったくべつの世界なのだろうか。

 

舞いによるオープンエンドな解決は、なるほど、SPAC俳優にして日本舞踊の名取である関根にとってもっとも妥当性の高いエンディングであるとは思うし、舞いそのものの美的カタルシスの有無を言わせぬ説得力があることは否定できないが、このクロージングには、どこかはぐらかされた気持ちを感じてしまったことも否定できない。

 

 

しかしそれは、もしかすると、配信による舞台が必然的にはらんでしまう問題なのかもしれない。リアルタイムの中継ではなく、パッケージ化された前撮りの映像であるからこそ、カメラワークや音の定位が気になってしまう。

 

特段の不満があるわけではない。しかし、クローズアップと俯瞰が交替するカメラワークは、妥当で適切きわまりないものではあるけれど、最上のものかというと、どうだろうか。

 

それに、ここには、オンラインならではの切り詰めもあるように思う。「素のままのわたし」に追い詰められて嗚咽するシーンは、リアルに劇場の空気を共有している状況であれば、映像のように数秒ではなく、数十秒の宙吊りに持っていけたのではないかという気もする。舞いにしても、象徴劇的な青い光は秀逸ではあったものの、どこかダイジェスト的な端折りを感じたことも事実ではある。

 

 

当事者演劇は開かれたものなのか閉じられたものなのか。当事者以外が演じられないという意味で当事者演劇を捉えるなら、それはひどく閉鎖的なものにならざるをえないだろう。

 

しかしここには、発達障害にとどまらない、社会と「わたし」をめぐる本質的な翻訳の問題がある。「素のままのわたし」を、社会は解読することができない。だから、社会が解読できるように「わたし」を翻訳する必要が出てくるけれど、それは、「わたし」を少なからず変質させ、偽りの仮面をかぶることでもある。しかし、たとえどれほど偽りであろうと、そうした仮面による社会的実利は膨大だ。周囲に理解されるように「わたし」を翻訳することで、「わたし」の読解方法を記したマニュアルを周囲に手渡すことで、「わたし」の生活の質は驚くほど向上する。しかしそのような社会的実利のために、心理的内実を天秤にかけることができるのか。ここには、ガヤトリ・スピヴァックが「サバルタンは語ることができるのか?」のなかで問題化した問いが、べつのかたちで、問い直されている。

 

その意味で興味深いのは、増田と関根が、自分たちの『私』や『わたし』を絶対化するのではなく、観客による二次創作を積極的に誘っていた点である。ふたりが想像=創造しようとしたのは、「発達障害」や「アスペルガー」の「ステレオタイプ」ではなく、そうしたカテゴリーに属すると目されている人たちのひとりひとりをユニークでシンギュラーな存在として肯定していくための可能性や条件ではなかっただろうか。おそらくそのような新しい可能性の創出の可能性において、増田=関根は、いくつもの道筋を、誰もがたどるべきものではなく、「わたし」がたどりたい道筋を、占めているように思う。

 

『わたし』という匿名性と代名詞性と茫漠さ。誰にでも当てはまるようで、誰にも当てはまらない。おそらくその曖昧さにこそ、このパフォーマンスは賭けられているのだろう。「わたし」をめぐるコミュニティの無限の創出にこそ、この芝居の可能性があるのではないだろうか。

 

『わたし』は、それを見たひとに、「わたし」について語ることを求め、「わたし」についての語りに耳をすませることを求める。そうした感染力にこそ、『わたし』という未完の私小説の普遍性があるのではないだろうか。