ブルーノ・マデルナの指揮はデフォルメと切り離して考えることができないけれども、なぜデフォルメがあるのかの理由を語ることは難しいし、彼のデフォルメを方法論的に説明することはさらに困難だ。
情念的な粘っこい歌い回し、スローテンポ、引き伸ばし、ゲネラルパウゼなど、いくつかの特徴を数え上げることはできる。しかし、スコアの精読にも、音楽史の読み替えにも起因していないように聞こえるマデルナのデフォルメは、きわめて恣意的で、特異で、反覆不可能であり、ほとんどロマン主義的な産物であるようにも思われる。
マデルナもまた、20世紀における指揮する作曲家のひとりに数えられる存在だ。しかし、マデルナがブーレーズと異なるのは、コンテンポラリーをきちんと振れる指揮者がいないから心ならずも作曲者が演奏を引き受けるようになったという経緯でタクトを取るようになったのではないらしいところだ。
神童であったマデルナは7歳にしてオーケストラを振るほどであったという。Wikipediaを見ると、マデルナはかなり複雑な幼少期を過ごしたようだ。
ヴェネチアに生まれ、4歳にして母を亡くしている。マデルナという母方の姓をのちに名乗ることになるが、彼に音楽の手ほどきをしたのは父のほうだった。
裕福な女性の後援を受け、ローマに遊学し、後にはマリピエッロに作曲を、シェルヘンに指揮を学んでもいるし、シェルヘンをとおして12音技法や新ウィーン楽派の音楽に親しんでいく。第二次大戦中はパルチザン闘争に身を投じ、戦後は教育活動にも熱心であった。
そのかたわらで指揮活動の範囲も拡がり、タングルウッドやジュリアードでも教えているし、最晩年はミラノのRAI放送響の終身監督を務めてもいた。
しかし、そのわりには、マデルナの指揮はアマチュア的な甘さを残していた。プロと言うには緩い部分が多々ある。音楽構造の見通しはよいが、響きは純粋ではない。純粋な指揮テクニックが不足しているようなニュアンスを感じるときがある。
その点でも、マデルナはブーレーズと対照的だ。たしかにBBC響時代のブーレーズのマーラーの海賊版ライブ音源にも、アマチュアじみた、音を置きにいっているような不慣れなところはあるけれども、マデルナの演奏の不器用なにごりやよどみは、経験によって洗練されることを待っているようなたぐいのものではないような気がする。
理性的にはとても澄み切っているのに、感性的にはどこか不透明な音楽。
マデルナの演奏はひどく肉感的だ。明晰さにすら体温がある。しかし、粘りはするがベタつきはしない。だからマデルナの指揮はベルクと親和性が高い。プッチーニ的な歌謡性が前面に押し出される一方で、オーケストラのテクスチャーが、もったりとした厚みを失うことなく、クリアに浮かび上がってくる。
マデルナの演奏はときにスコアから逸脱する。そしてそのような理由なき逸脱は、現代において、正当化されえないものかもしれないし、だからこそマデルナの演奏は、依然として不思議な魅力を放っている。恣意的ではあるが、マデルナというひとりの人間の気まぐれに還元されるものではない。作曲者マデルナ、古楽編曲者マデルナにつうじる確かなバックボーンがある。にもかかわらず、方法論的なところにまでは定式化されていない。
だからマデルナの指揮する音楽は面白い。いびつなところ、まとまっていないところ、バラけているところが面白い。グダグダになっているところ、音としてはグダグダになりながらも精神のレベルではどこか澄んでいるところが面白い。