うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

セミヨン・ビシュコフの時代錯誤的にふくよかな音楽:両立可能な厚さと軽やかさ

セミヨン・ビシュコフの音楽のふくよかさは、なかなかありそうでない。彼の鳴らす音は分厚い。厚手の生地に厚手の裏地がついている感じだが、暑苦しくはない。向こうが透けて見えるような軽快さは皆無だが、かといって不透明に濁っているわけではない。音は充分に鳴りきっているが、やかましくはない。重量級の音楽だが、鈍くはない。重心が低く、どっしりしているが、にもかかわらず、敏捷性にも欠けていない。不思議なバランスが成立している。

ビシュコフは1952年生まれのユダヤ系。ソ連時代のレニングラードに育ち、レニングラード音楽院で学んだが、74年に亡命し、83年にはアメリカに帰化している。アメリカの地方オケで地道なキャリアを積みながら、80年代から90年代にかけてはPhilipsと専属契約を結び、ベルリンフィルやパリ管との録音で華々しくデビューした。しかし、その後はメジャーレーベルからは姿を消してしまう(それはCD自体が退潮にあったことと無関係ではないだろう)。

ともあれ、同世代のゲルギエフ(53年生まれ)、シャイー(53年生まれ)、ラトル(55年生まれ)、すこし下がってパッパーノ(59年生まれ)は、なんだかんだでメジャーレーベルから録音が出ていた。しかしビシュコフのほうは、WDR放送響との録音がProfilからちょこちょこ出ていたり、DVDでオペラ録音がリリースされてはいたりはしたものの、スポットライトからは遠ざかっていったように見える。しかし、かといって、完全に消えてしまったわけでもなく、言ってみればメジャーな裏街道で地道に誠実に音楽に邁進していたようだ。彼の指揮はますます充実していったようである。

ビシュコフの音楽の肉感的な厚みと安定感は、部分的には、ロシアの伝統に与するものかもしれない。たとえばマリス・ヤンソンスの作る音楽にも、似たようなソリッドな重みと、圧倒的な充実感がある。

しかし、ムラヴィンスキーにしてもコンドラシンにしても、往年のロシアの指揮者にはわりと鋭利なアタックがあり、ヤンソンスにしても、点で合わせるような精密さがあったけれど、ビシュコフの音楽はひたすら面や層で出来ているところが、ある意味ではカラヤン的だ。

ブーレーズ的な細筆による人工的な点描画がスタンダードとなった(そして、それにたいする反動的なアンチテーゼとして、おおらかでおおざっぱなフリーハンドが好まれるのかもしれない)現代において、ビシュコフを特異な指揮者にしているのは、範囲的な細やかさと、有機的な流れが、見事なバランスで成立しているからだろう。

それはおそらくビシュコフという音楽家の本質に由来するものであろう。デビュー当時の録音を聞いても、ヨーロッパ的な呼吸で音楽にゲネラルパウゼを入れるのではなく、滞りも止まりもしない大河のような永遠の流れを基調にして、動的に音を足し引きしている。アンサンブルのときは、つねにハモリの下の旋律を強めに演奏させている。コントラバスやチェロといった低音を常に主体にするのではないし(それはいわゆるドイツ的な鈍重な安定感である)、かといって、土台となる低音をしなやかに歌わせるのでもない(それはジュリーニが試みたようなイタリア的カンタービレである)。鳴っている音のなかで相対的に低い方をバックボーンにするという、ダイナミックなバランス感が、ビシュコフの音楽の根底にあるようだ。

その意味で興味深いのは90年代にパリ管と録音したボレロだ。ピッコロが調子外れのような旋律を奏でるところは、指揮者にとって難しい箇所なのかもしれない。ブーレーズのような響きの純粋性を追求する音楽家は、ここでさえ協和的に響かせようと、倍音で合わさせるようなことをする。そうでなければ、「ここはそういうものだから」という顔をして、無理やり通り過ぎる。ビシュコフはそのどちらでもない。普通であれば、高音域のピッコロに自然と埋もれてしまうメインの旋律をしっかりと押し出す。けれども、ピッコロを圧倒してしまうほどには強奏させない。ハモリの下のラインを、音楽が壊れないギリギリまで強く出させることができるところに、ビシュコフの音楽家としてのセンスの良さがある。

ビシュコフのレパートリーの核がどこにあるのか、いまひとつわからないけれど、後期ロマン派のような肥大化した音楽、どこを主軸に据えたらいいのかがわからなくなってしまっている音楽を振らせると、まったく見事だ。シュトラウスの『エレクトラ』やシェーンベルクの『浄夜』のように、無調に傾きつつギリギリのところで調性にとどまっている音楽こそ、ビシュコフに振らせると面白い。肉厚でありながら、爛熟しすぎていない。かといって、整理されすぎてもいない。適度にカオスで、適語にゴージャス。理性的に捌きすぎていないが、感性的なところに委ねてしまっているわけでもない。

整頓された不透明。

精密に織り上げられた、野暮ったさをギリギリ下回る分厚さ。

心地よい手ざわり、けれども、陶酔させることを目指した滑らかさではない。生なりの、素朴だからこその、肉感性。

ビシュコフのような指揮者がこの先はたして現れるのか、疑問に思う。彼のような鈍重な敏捷さ、粘っこい軽やかさ、普通の凄さは、指揮コンクールのような場では不利な素質であるように感じる。

ビシュコフがそもそも、指揮者として、絶滅危惧種なのかもしれない。21世紀も5分の1が過ぎたが、指揮スタイルはますます均質化しつつあるのではないか。だからこそビシュコフの特異性はますます有難いものなのである。

 

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