うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

職人的な芸術家:ミシェル・アルシャンボー、笠羽映子訳『ブーレーズとの対話』(法政大学出版局、2022年)

ピエール・ブーレーズは怠惰を嫌い、創意を愛していた。複雑さを好み、複雑なものを理解し鑑賞するために努力を払わない者を軽蔑していた。

いや、もしかすると、軽蔑していたというよりも、そのような怠け者の心情にたいしてこれっぽっちも共感を抱けなかった、といったほうがいいかもしれない。すくなくとも、このインタビューに収められている言葉——わりと長いあいだにわたって断続的に続けられたインタビューのようで、訳注で指摘されているとおり、話が急に飛ぶ箇所がある——からは、若かりしブーレーズのひどく挑発的な調子はトーンダウンし、独学者としての矜持と、自らが偶像を破壊する側ではなく教える側になったという意識が、わりと表に出てきているようではある。

最初のステップを乗り越えさせてくれたのは教育であり、私が独学者になったのはその後にすぎません。もし、教えられたものから個人的な研究方法を導き出さなければ、他者の支配下にいつまでもとどまってしまいます。何よりもまず獲得すべきなのは自律です。私にとって独学者であるということは、自律した人間であるということです。私たちは、そうであろうとする意志によって独学者なのであって、たんに、物事を教えてもらうために誰かと出会うチャンスがなく、自分で学ばざるを得なかったという理由で独学者なのではありません。(15頁)

独学者であるということは、たんに自分の直観を当てにしたり、教育を拒んだりすることではありません。教育を自分のものとして感じ取ることでもあるのです。それは別のことです。誰もが独学者なのです——私はそれを悪い意味で解釈しているのではありません。とはいえ、物事を自らが完全に学ぶに至るまで独学を推し進めなければなりません。それは自分自身の探求です。(15頁)

音楽教育は起爆装置の役割を持つべきです。そして爆轟が起こるためには、起爆装置と、また同様に爆薬が必要です。もしどちらかがなかったら、何にもなりません。その効果はまた速やかに獲得されなければなりません。長く続く教育はマンネリ化してしまうからです。/私が気づいたのは、そして私に関しては真実だったのですが、最良の教育者は若い人たちだということです。その年齢だと、伝えたいという願望を抱くからです。次いで、一定のマンネリ化が定着し、自分自身の選択したことを究めるために内にこもり、それほど伝えようとはしなくなりがちです。その上、まだほとんど知られていない若い教師たちの講義に出席するとしたら、それは本当にそれらの講義を聞きたいと思っているからなのです。ひとたび名が知られると、皆が彼らの講義(111頁)に馳せ参じますが、しばしば、彼らには初期の高揚や情熱はもはやありません。(112頁)

もしかするとそのあたりの話を引き出したところに、ミシェル・アルシャンボーの手柄を見てもいいかもしれない。というのも、ブーレーズの他のインタビュー本や、ブーレーズ自身の手になる論考を読んだことがある身からすると、聞いたことのある話が多いのだ。そのことについては、アルシャンボーも、訳者の笠羽映子もかなり意識的ではある。

 

では読む意味がないのかというと、そうでもない。ジャン・ルイ・バローの劇団で働いていた50年代からドメーヌ・ミュージカルの活動にシフトしていく60年代前後の記述が分厚い(バローがそこまで資金援助をしていたとは)。また、バローが稽古をつけるところを見てきたことが、後年の指揮者としての活動に生かされたという発言はひじょうに興味深い。

また1925年生まれのブーレーズは第二次大戦中のパリを体験しており、戦時下のなか人々がどんなに音楽に飢えていたか、そのような状況のなかでもメシアンの教えを学ぶために生徒たちがやってきたことを伝えている。

子供のころ聖歌隊で歌っていたという話は、前に読んだことがあったかもしれないが、今回あらためてそうなのかと腑に落ちたところでもある。ブーレーズは『ル・マルトー・サン・メートル』にしても『プリ・スロン・プリ』にしても声楽と器楽の融合を目指しているし、e. e. cummings の詩による合唱曲もあるし、なぜそこまで声物に愛着があるのかと常々思っていたのだけれど、かなり腑に落ちた。

 

それでもブーレーズ一流の毒舌っぷりは随所にある。そこにクスッとするか、苛つくかは、ブーレーズの音楽観にどこまでついていけるか次第だろう。たとえば次のような一節。

サティはマイナーで取るに足らない才能しか持ち合わせていなかったと私は思います。ドビュッシーラヴェルに比べると、サティは、多分《ジムノペディ》を除いて、存在しないも同然で、それだけです。(133頁)

アイヴズは失敗したマーラーです。(134頁)

作曲家仲間についても、わりと容赦がない。

私は彼とは何にもましてとても強い友情関係を持ちました。マデルナはとても頭の切れる人物でした。彼は明敏で才気煥発でした。けれども音楽面で重要だった音楽家には属していません。私たちは音楽的である以上に友だちとしての関係を持っていました。(144頁)

個人的な友人であることと、音楽家としての重要性というものを、ブーレーズはきっぱりと分けて考えていたのだろうか。たとえばクセナキスについてのブーレーズの評言はもっと辛い。

彼の思想は興味深いのですが、それは音楽的である以上に視覚的です。彼にはつねに確固とした音楽教育が欠けていて、彼の思想を効果的に伝えられたであろう手段にけっして専念することはありませんでした。(145頁)

ピエール・シェフェールにたいしてはさらに辛辣である。

 

ただ、ここから垣間見えるのはブーレーズの鼻持ちならないエリート主義である、とするのは的外れな気もする。

ブーレーズが批判しているのは、彼らがしかるべき学校で教育を受けなかったことではなく、必要な技術を身につけていないことなのだ。その意味で、ブーレーズのエリート主義は、名ではなく実を取るたぐいのものであり、だからこそ彼はフランク・ザッパを称賛するのだろう。

多くのアーティストがかなり型にはまった活動をしているロック界にあって、彼[ザッパ]は本当に別格の人物でした。自分の元々の表現領域はあまりにも狭いと判断し、彼は自分の抱いていた探求心から、それとは違うものへと導かれたのです。彼がそのことを私に話した時、興味を惹かれました。自分自身の世界から脱出しようと努める人々に私はいつも好感を持ってきたからです。或る人物が突然自分の現状の限界を悟り、より遠くへ進もうと試みるのはとても興味深いことです。(102頁)

 

どうすればマンネリを避けられるか。

ブレーズの回答は、「外挿 extrapolation」ということになるだろう。意図的に異質なものを取りこむこと。自分がすでに身につけているものを内発的に発展させるのではなく、まったく異なる要素、自分がそれまでに触れてこなかったものを、いわば無理やりに、前後の脈絡なしに、刺激として取り入れること。

そこにブーレーズの不思議なまでの柔軟さがある。

剽窃されるというのは、何か新しいものをもたらした重要な作曲家すべての特質です。新しいものは、分配されるために作られるのです。(83頁)

たしかにブーレーズは全方位に開かれた音楽家ではなかったし、限定された範囲を飽きることなく精緻に練り上げていくタイプの音楽家ではあった。彼がジョイスとベルク、『ユリシーズ』と《ヴォツェック》をその「究極的形式化」ゆえに称賛するのはよくわかるところではある(177頁)。

しかしその一方で、傑出したものにたいする直感を持ち合わせてもいた。

私は一九四七年か一九四八年に彼[アントナン・アルトー]が自分のテクストを読むのを目の当たりにしました…… どれほど彼のテクストが、良くも悪くも、彼がそれを読むやり方と切り離せないかを見てとるのはとても感動的でした。彼の詩に感銘を受けないことはあり得ても、彼の朗読は私たちの心を完全に捉えたものです。まったく驚くべき朗読の高まりによって、一種の生理的なものを彼は直接(180頁)私たちに及ぼしていました。特徴的だったのは、突然表現が日常的語彙をはみ出して、さまざまな音楽がわき出してくると、伝統的な手法で書かれた文章と反復的ないしはその内容からして単純に表現的な音素とが混じり合うことで、それらの音楽に彼は叫びを加えていました。彼はアジアの芸能や、詩は単に書かれるのみならず語られるものであるという考え委に影響されたのだと私は思います。(181頁)*1

ある特定の領域内における洗練を究めること、しかし、そこに安住することなく、新規のものに(しかし自身の厳格な美意識に適合するかぎりにおいて)貪欲であること。その意味で、ブーレーズは、芸術家的な職人ではなく、まさに、職人的な芸術家であったのだと思う。

*1:ブーレーズは、エズラ・パウンドの『キャントーズ』のことを教えてくれたことのお返しに、ケージにマラルメアルトーを紹介したと述べている(196頁)。ただそれに続けて、「彼のハップニングにとりわけ興味を持ったと私は言えないにしても」と付け加えることを忘れない。e. e. cummings のことを知ったのも、『フィネガンズ・ウェイク』や「19世紀中頃のニューイングランドの詩人たち」(197頁;エマソンホイットマンやディキンソンのことだろうか?)と親しむようになったのも、ケージのおかげとのこと。