うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。「ルールを守る」というメタ・ルール。

特任講師観察記断章。「ルールを守る」というのは、ルールそれ自体には含まれていないメタ・ルールであり、ゲーム参加の大前提だ。ゲームの具体的なルールのために、自らの自由を制約することを自発的に受け入れることを意味する。公的で集団的な営為であるゲームのために、個人的自由を部分的かつ一時的に放棄する。
この自発的断念には、どことなく倫理的な清廉さがある。だからこそ、その高潔さを汚す輩に道徳的な怒りを募らせてしまう。けれども、自分が道徳的高みにいることを意識しているがゆえに、上から目線で、正当な権利として「あなたはルールを守っていない」という叱責を投げつけることは、「ルールを守る」というメタ・ルールをそもそも便宜的にしか受け入れていないプレイヤーに届くのだろうか。
そのようなプレイヤーにしてみれば、ルールは自分の利にかなうかぎりにおいて自ら従い、他人にも従わせるものでしかない。自分の都合が悪くなれば、変えるものであり、変えてよいものであると思っているような、『君主論』のマキャヴェリに私淑するようなプレイヤーは、「あなたはルールを守っていない」と詰問されたところで、公然の秘密を暴露されたぐらいにしか感じないのではないか。それどころか、そのような暴露が、そのようなプレイヤーと、自分の身勝手な論理や利害によってルールを無視したい/している輩とのあいだに、連帯を芽生えさせてしまう危険があるのではないか。
「好きなことをやっているのなら文句を言うな」と口にする者は、「好きなこと」をすることが、それを可能にしたものに従属することと、バーター関係にあることを前提としているのだろうか。好きなことをすることは、悪魔に魂を売り渡すようなものだと考えているのだろうか。そこには代価が発生しており、あれこれのことをすることが、原理的にすでに禁じられていると信じているのだろうか。
「俺は好きでもないことを嫌々やっているのになぜおまえは」というルサンチマンがあるのかもしれないが、それよりはるかに根深い問題は、現在の社会と労働が、「好きでもないこと」が個人の生活の大半を占めるように強いているという点ではないか。「(金を稼ぐために)嫌なことを耐えるのが常態である」というのは、分裂的な生を日常化することであり、混沌とした力に翻弄される奴隷的労働と、私的利害の支配する快楽的なプライヴェートのあいだに壁を設けることであり、ひとつの場のなかに多元的な原理がせめぎ合う余地を認めないことだ。
そのような偏狭さの先に何があるというのか。国家を置くのであれば、なぜその先にさらにを想像してみようとしないのか。人類を、ほかの種を、惑星全体を。効率性思考それ自体はニュートラルだから、トートロジー的でもありえるし、目的論的でもありえるけれど、結局は目的論的に用いられてきたし、その目的自体は決して効率論的なものではなかった。自国を繁栄させる、他民族を絶滅させるというのは、無色透明な効率の話ではなく、色香のいかがわしいイデオロギーの話である。突くのであれば、そこを突かねばならないように思うのだけれど、それが戦略的に妙手かというと、そうでもない気もする。