うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

存在がなければ生成はない:グレアム・ハーマン、上野俊哉訳『非唯物論』(河出書房新社、2019)

ポスト・ヒューマン

いまひとつよく理解できないでいるのだが、ハーマンが「非唯物論 Immaterialism」という言葉で名指そうとしている思想は、ポスト・ヒューマン的なものであると言っていいような気はしている。人間というカテゴリーが完全に抜け落ちるわけではないけれど、「人間」に与えられてきた特権的なポジションがシステマティックに解体されていく。重要なのは人間だけではない。人間も非人間も、文化的なものも自然的なものも、ひとしく対象である。特権的な対象というようなものはないし、そうした対象を捉える側についても同様である。わたしたちはもはや人間を特権的な認識主体とすることはできないし、人間を中心に世界を把握するわけにはいかない。

特権的な認識主体から、ワン・オブ・ゼムの対象へ、有象無象のひとつへと、人間を格下げする。しかしそれは、人間を貧しくすることではない。そうではなく、人間を、人間と非人間をすべてひっくるめた豊かな関係性のなかで捉え直していくことである。人間が状況に埋めこまれていること、それは、人間が状況の産物にすぎないという悲観的で運命的な宣告ではなく、他のモノと共にある人間という存在の創造性や意義深さを改めて見出すことである。「人間自身、ある共生における構成要素である」。

人間自身が対象であるということ、また人間は、自分がいる時間と場所の単なる産物であるのではなく、自分が直面するどんな境遇に対しても抗えば抗うほど、対象と同じように人間はより豊かに、また意義ある存在になるということ、われわれはこうした点を忘れてはいけない。(74頁) 

それがグレアム・ハーマンの『非唯物論――オブジェクトと社会理論』の基本路線である。本書は理論編と、応用編ともいうべきオランダ東インド会社についてのケース・スタディーの二本立てになっているが、後者については事実関係がよくわからないので、以下ではもっぱら前者部分に注目することにする。

 

存在論だけれどカント的な措定も

オブジェクト指向実在論Object-Oriented Ontology」(OOO)という別称がよく表しているように、これは実在論存在論である。認識論的な側面がないわけではない。しかし、認識論的な問題系は、存在論的な問題系によって包摂されているようだ。

だから、非唯物論またはOOOは、カント的でもあれば現象学的でもある方向性を持ち合わせている。非唯物論はある程度までカント的な措定をなぞる。対象であるモノがある、認識者は対象=モノにある程度までアクセスできる、しかしながら、十全なアクセスは不可能である、というように。

カントの言う、現象(五感で認知可能なもの)と物自体Ding an sich(五感では認識不可能なもの)の二層性を、ハーマンはとりあえず受け入れている。しかし、カントがここから、認識不可能な物自体の探求を禁じ、認識可能な現象の方へのアプローチを試みるという戦略的選択を捻りだしたのにたいして、ハーマンは、物自体の把握の最終的な不可能性を受け入れながら、それにもかかわらず、物自体のほうに向かっていく。

いや、ハーマンが目指しているのが、物自体であるというのは正しくないかもしれない。しかし、ここで重要なのは、カントがあくまで「可能なところ」に留まろうとしたのにたいして、ハーマンはどうも不可能に思われるところにあえて突き進んでいこうとする点だ。

 

十全ではないアクセス、ATNのほうへ

解説で上野俊哉が指摘しているように、ここでの肝は、ハーマンが物自体のレベルを措定していることではなく、モノへのアクセスが「十全」ではない(しかしある程度まではアクセス可能であり、まったく不可能ではない)、という点だろう(上野164-65頁)。「できる/できない」という明確な二分法ではなく、グラデーション的な不充分性のほうに、ハーマンは着目するのだが、ハーマンの議論の中では、この不充分性というネガティヴな含意を持ちかねない主題が、「余剰」というポジティヴなイマージュへと翻訳される。

オブジェクト指向実在論は、実在は精神の外にあり、われわれはこれを知ることはできないと主張する。こうしてわれわれは、非直接的、暗示的、副次的手段によってのみ対象にアクセスすることになる。まるで人間が外部を擁する唯一の存在者であるかごとく、実在は「精神の外」にのみ存在するのでもない。そうではなく、実在は塵や雨粒の因果的相互関係は越えてはいても、人間の領域でもそうであるように、生命なきものが関係しあう世界においても決して十全に表現されることのない、ある余剰として存在している。(29-30頁) 

ハーマンが狙いを定めるのは、対象=モノの深奥に秘められた本質ではなく、モノからにじみ出る余剰であり、そうした余剰によってモノ同士が作り上げる関係性のほうだ。

ハーマンがブルーノ・ラトゥールのアクター・ネットワーク理論 Actor Network Theory(ANT)に傾倒するのは、その意味で、必然である。重要なのは、アクターひとりひとりではなく、アクター同士が作り上げるネットワークのほうであり、ネットワークのほうからアクターを逆照射することである。孤立したモノでも、モノの内奥でもなく、モノとモノのあいだに生起する関係性を捉えること、それがハーマンの試みであるらしい。

 

モノの関係性の存在論性、自ら以外の担保を必要としない自律的なモノの存在性

ハーマンの試みがトリッキーに感じられるのは、このモノの関係性の次元が、現実を解釈する認識者のほうではなく、モノそれ自体のほうに投げ返されているところにある。

モノがなにか別のモノと関係をもつかどうか、どんなモノとどんな関係を築くかは、モノにあらかじめ書きこまれているようなものではないし、その意味では偶発的ではあるけれども、かといって、そのような関係を可能ならしめた要素がモノ自体に備わっていないわけではない。モノにはある種の本質のようなものがあるし、それがあってこそ、「共生」が可能になるのである。

まさにそうした理由で、ハーマンは、対象は受容的receptiveであるというのだろう(21頁)。モノにはそもそも関係を受け入れる余地がある。それは、観察者が外から見出すものでもなければ、解釈者が対象に投影するだけのものでもない。関係には、関係を作り出している項たるモノのほうに、何かしらの内在がある。

ハーマンは反‐還元主義的である。対象の関係性を記述‐説明しようとするさい、ハーマンは、それを何か超越的なシステムに「堀り上げ=上方還元=過剰還元Overmining」する――神学や哲学でお馴染みの手法――こともなければ、モノをさらに小さな構成要素へと「下方還元=過少還元Undermining」する――社会科学や科学でお馴染みの手法――こともないし、モノの次元と解釈次元というようにモノを何か別の次元に還元はしないけれどもそこに何か別の解釈格子を投影するような「掘り重ね=Duomining」――ハーマンはパルメニデスを例にあげている(22頁)――にも否定的であるようだ。

すべてを同じ平面で捉えるべきであって、そこに複数のルールを持ちこむようなイカサマ的ダブル・スタンダードがあってはならない(57頁)。「前」や「後」に「要素」や「効果」を据えるべきではないのだ。もしオブジェクトがそれ以外の何かで代替できてしまうとしたら、オブジェクトは便宜的かつ暫定的に設定されることによって初めて出現するようなフィクションにすぎなくなってしまう。というより、もしオブジェクトが何か別のものに還元されうるとしたら、そこではつねに、そうした還元操作を行う者の存在を措定しているのである。

ハーマンの立場は、伝統的な哲学の語彙を使えば、反‐独我論と言えるかもしれない。もし誰も聞いている者がいないのであれば森のなかの音は存在しないという極端な独我論を述べたのはバークレーだったと思うが、ハーマンはその対極に位置する。音を聞いている人間がいようがいまいが、音はある。

しかし、ここから、スピノザ的な汎神論には向かわないという意味で、ハーマンの思想は徹頭徹尾、世俗的なものであるようにも思う。汎神論的な立場に立てば、音があるのは、人間が聞いていないとしても、その「上」におわします全知全能の神が聞いているからである。ハーマンにはそのような超越的存在による「存在」の確保は行われない。存在にはそのような保証はないが、それでも、ある。

 

生成主義にたいする逆張り、存在がなければ生成はない

ハーマンが試みているのは、いわゆるポスト構造主義以降の「生成」過激主義とでもいうべきものにたいする反旗である。どうもそれが「新しい唯物論」と呼ばれるハーマンの仮想敵であるようなのだが、要するに、ドゥルーズ的な永遠の生成変化と、バトラー的なパフォーマティヴィティという主題系を、戯画的なまでに押し進めた立場であるようだ。すべては動いている、本質はなく行為のみがある、行為の効果が遡及的に主体を構成する、関係は偶発的であり創発的である、というような感じだ。

ハーマンによれば、そのような「新しい唯物論」の公準を裏返したものが、「非唯物論公準」となる。

〇変化は間欠的であり、安定が標準である。

〇あらゆるものは連続的な傾向に即してではなく、明確な境界と切断点にしたがって分割される。

〇あらゆるものが偶発的というわけではない。

〇実体/名詞が行為/動詞よりも優位を占める。

〇あらゆるものには、どんなにはかないものであっても自律した本質があり、われわれの実践はその本質をわれわれの理論がそうするのと同じに把握する。

〇あるモノが何であるかということが、あるモノが行うことよりも興味ぶかいことになる。

〇思考とその対象は、他のいかなる二つの対象以上に分離しているわけでも、それよりも分離していないのでもないので、両者は「内的に行為する」よりも相互行為しあう。

〇モノは多種多様であるよりも唯一特異である。

〇この世界はただ単に内在的なのではない、これは良いことである。なぜなら、純粋な内在は抑圧的になるからである。(27-28頁)

なるほど、彼の議論はどこか逆張り的な部分があるけれど――上野は解説のなかでハーマンのこの逆張り気質に言及している(164頁)―――それは単なる転倒ではなく、「生成か存在か」、「devenirかSeinか」という極端な二者択一の批判である。

二〇世紀に繰り返し登場した知的修辞の一つには、モノは活動に、性的な状態は動的な過程[プロセス]に、名詞は動詞に換えられなければならないという考えがある。ベルグソンやジェイムズから、ホワイトヘッド、ダイナミックに読まれたさいのハイデッガーを通し、さらには近年のドゥルーズの流行にいたるまでずっと、「生成」becomingは刷新を好む者にはいつでも使える切り札として崇められる一方で、「存在」beingは旧時代の昔ながらの哲学に逆戻りするまぬけな身ぶりと悪し様に言われている。OOOはこれとは反対の原則を強調するのを選ぶ。つまり、生成が間違いにつながるからではなく、移り行く過程[プロセス]は、この過程から外れた何かがなければ生じえないからである。(70頁) 

「存在」なしに「生成」のみを考える潮流にたいする批判である、というほうが正確だろうか。ハーマンが試みるのは、生成と存在の両方をキープしつつ、存在を基底とする、生成と存在をコインの裏表のように扱いつつも、存在のほうに力点を置くというスタンスを分節することである。

ハーマンは流動性を否定しないが、それと同時に、固定したもの、動かないものを、より根源的なものとして扱っているようである。別の言い方をすれば、ハーマンは、モノ=対象がダイナミックな関係にあり、それらの関係がつねに変転していくことを受け入れつつも、それらの具体的な関係には変転しないものもあること、パラメーター初期値に見られるようなある種の偏りのようなものがあること、それゆえ、実際に作り出される関係の底にある種のスタティックな関係性があること――ハーマンが「共生」と呼ぶのは、このあたりの現象をひっくるめたものにたいする呼称であるように思われる――を強調する。

 

ヒエラルキーとアシメトリー

こう言ってみてもいい。一方において、ハーマンは対象がフラットな関係にあることを受け入れる。しかし他方において、彼は、すべてがフラットなのだからフラットに関係が組み変っていくという立場を受け入れない。それではすべてがなし崩しになる、すべてが重要であり、あれもこれも重要であるということになるし、それは要するに、どれもこれも重要でないし、すべてどうでもいい、ということになってしまう。それがどうもハーマンには受け入れがたいらしい、

存在論的な民主主義(特権的な対象はない、どれもがひとしく重要である)は、規範的な相対主義(どれも特別扱いしてはならない、どれも同じくらい重要であると見なさなければならない)に転化しうるし、そこから、悲観的な虚無主義(どれもこれも同じだ、どれもこれも変わりない)に陥ってしまう。この横滑りをハーマンは批判しているように感じられる。

ハーマンがラトゥールやATNと袂を分かつのはこのあたりでのことである。ATNのように、すべてをアクターと捉えることにハーマンは賛成する。というのも、特権的対象を作るべきではないからだ。存在論的な民主主義において、ハーマンはATNに同意する。しかし、そこから、どのアクターも意味があるという価値論的な民主主義を引きだすことに、ハーマンは同意できない。

スタティックな項が織りなすスタティックな模様=構造としての総体ではなく、ダイナミックなアクターから立ち上ってくるダイナミックな総体というモデルを採用する点において、ANTは有益である(121頁)。あらゆるもの(人間も非人間も、自然的なものも文化的なものも、現実的なものも想像的なものも)をひとしくアクターとして扱う節操のなさ、分け隔てのなさ、非ヒエラルキー的でフラットな方向性において、ANTは有益である(121頁)。

等価性の原理を持ち込むことは、新しい思想が始まるための必要条件なのかもしれない。「どんな哲学でも自らの伝統における前提を払いのけるため」、「はじまりの平板化」を必要とする(130頁)ことをハーマンは率直に認める。しかしながら、この戦略的平板化を、方法論化し、さらには価値論化することには、賛成できない。ANTの問題点とは、存在論的な不均衡性を、解釈学的な平等性へとなし崩しにしてしまうことである、と言ってしまっていいのかもしれない。

別の問題もある。すべてを関係性において捉えようとすると、関係性がモデルとして自律し、存在していない相互性や相補性や対称性を、対象のほうに投影してしまう。これはすべてをフラット化しようという意図がある場合、いっそう問題になる。

ハーマンが言っているのは、もしかすると、きわめて単純なことなのかもしれない。すべてはアクターとして機能しているが、すべてのアクターが同じくらいに重要ではない。関係には水平的にも垂直的にも不均衡や不等号がある。関係の重要性にも濃淡がある。水平的な差異があるだけではない。垂直的な差異もある、つまり、序列がある。

反民主主義的で、反平等主義的で、貴族主義的と受け取られかねない主張ではある。ただし、だからといって、ハーマンが政治的に保守的なのかというと、そこはいまひとつわからない。上野が指摘するように、ハーマンのみならず、OOOや思弁的実在論といった潮流自体が、ニック・ランド周辺の新反動主義Neoreactionaryや暗黒啓蒙Dark Enlightenmentとつながっている部分はあるらしい(190頁)。

ハーマンの議論は、もしかすると、価値論レベルにとどまっているのであればそこまで目くじらを立てるほどのものでもない平等主義を、存在論レベルにまで引き下ろしてすべてがフラットで「ある」と強弁する左翼的詐術にたいする攻撃なのかもしれない。哲学の政治化、つまり政治的理想のために唯物的真実を従わせようという現実改変的な文化左翼にたいする哲学的な攻撃でこそあれ、政治における民主主義的価値観にたいする政治的な攻撃ではないのかもしれない。

もちろん、両者がそんなにたやすく切り離せるものであるのかは疑問が残る。不平等とは言わないまでも、不均衡を基盤にして、対象につねにすでに序列的な価値や意義がアプリオリな書きこまれていることを認めておいて――つまり、存在のカースト性を基底において認めておいて、それを<とりけす Undo>ような関係性を重ね合わせることを思考できるのか。ランシエールはNoと言うだろう

ハーマンが政治的に反動的かはともかく、非唯物論ないしはOOOに、反民主主義的で貴族主義的な潜在的傾向があること、序列制や階層性を関係のモデルとして受け入れていることは、まちがいないように思う。なるほど、ハーマンは、「哲学の務めの一つ」とは、「対象間の様々に異なるタイプや系統群[ファミリー]を分類する新しいやり方を見いだすことである」(133頁)と述べているが、その分類法は、すべてにたいしてフラットに開かれてはいるものの、その内実はヒエラルキー的でアシメトリー的であるように思う。

 

触知できないけれど確かにある存在と関係性

上野はハーマンが提供する分類化のツールは有益であるが、それによって分類を自己目的化することはハーマンの思惑かではないだろうと述べている(180頁)。

その通りだ。ハーマンの思想のもっとも生産的なところは、おそらく、唯物的には存在していないとしかいえないもの、解釈学的には観察者の主観的な投影=想像としかいえないものに、存在論的(客観的)なところを見出そうとする部分にあるのではないだろうか。上野によれば、ハーマンの「ゲリラ形而上学」とはそのようなものらしい。

距離を通した接触、あるいは非関係の関係を通して、何とか関係をさらに実質substanceとすること、ハーマンにとってはこれこそが「ゲリラ形而上学」であり、「モノたちの大工仕事」the carpentry of thingsなのだった。求められているのは、リンギスが水準levelと呼び、ハーマン自身が媒質mediumと呼ぶような、対象どうしがはからずも相互作用する次元や空間である。つながらないモノたちをつなぐ媒質、というよりは魔術的な糊glueのようなはたらきをハーマンは考えており、ゆえに「大工工事」という語も呼び出されている。(上野181‐82頁) 

しかし、この非関係の関係が本当に存在論的なものなのか、という疑問はつねにつきまとうだろう。認識論的=解釈学的なものを、ただ存在論的と言いなおしているだけであって、言葉遊びをしているだけではないのか、という批判を向けたくなってしまう。

なるほど、超越論的主体であれ、共同主観性であれ、ともかく、認識者という項を措定することなく、モノ同士の関係性、対象同士の「はからずも」の相互作用を考えるには、モノの共生であるとか、「機会原因論 occasionalism」(マルブランシュ)を持ってくるのかもないかもしれないし、そうでもしないと、認識者のかわりに神が密輸入されてしまう。ハーマンが持ち出す「副次的=代替因果性 vicarious causation」は、それらの隘路を避けるための苦肉の策なのかもしれない(上野184‐85頁)。

ハーマンすらよくわかっていないのかもしれない。彼が最近傾斜しているという「汎心理主義 panpsychism」や「多心理主義 multipsychism」は、ハーマンが試みている別の脱出口なのかもしれないが、どちらにせよ、「ないけれどある」「感知はできないけれどある(はずだ)」というような日常感覚によりそうようなやり方は、ややもすれば、悪い意味でのベルクソン主義的な直感主義へと転落しかねない。だから、上野は次のように問うている。解釈学的な方向性(言語論的転回や記号論)にたいする批判だったはずの非唯物論OOOが、対象のあいだには「魅惑 allusion」のようなものがあるという措定に走っているのではないか、と(上野194頁)。

唯物論は、反合理主義や反理性主義、オカルティズムに滑り落ちていきかねない。排除したはずの神や超越性のかわりに、アニミズム的なものやスピリチュアルなもの、ナチュラリズム的なものやスーパーナチュラリズム的なものが回帰してしまいかねない。

 

オルテガ・イ・ガセットと隠喩的なもの

しかし、上野によれば、ハーマンの思想の根底にある「主体はすでにして対象であるという視角」は、オルテガ・イ・ガセットの「序文のかたちでの美学エッセイ An Essay in Esthetics by Way of a Preface」から引き出されたものらしい(上野183頁)。

オルテガ‐ハーマンが言うのは、主客がぴったりと合一というような禅的なものではなく、「ほとんど同じになる」ということだという。そして、それは、主体の意識的な努力によって達成しうるものではなく、わたしたちに、モノたちに、あらかじめそなわっている、汲み尽くされえない「何か something」のためなのだという(184頁)。

存在と思考がつながりうるのは、思考のおかげではなく、存在の賜物だからだろうか?

少なくとも、論理的・因果論的な思考でないことだけは間違いない。それはむしろ、言語的なもの、隠喩的なものであり、美学的なものなのである。

かなりラディカルな方向性だ。これを敷衍すれば、わたしたちが通常因果的と考えるものすら、隠喩的であるということになるのかもしれない(上野186頁)。それは、ソーカルたちが批判した、ポストモダンの科学との戯れとは、かなり違ったものであるように思う。科学的なものは否定されていない。科学的な論理よりも包括的な原理――隠喩的なつながり――が措定されているのである。

美学(感性論)を第一哲学とすること、そして隠喩的なもの――そしてそれは言語的なものでなくてもよいだろう―ーを第一原理とすること、それが、非唯物論のもっとも創造的で、創作的で、創世的な可能性かもしれない。