うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

万人による差別批判の表と裏:綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社、2019)

以下の文章は必ずしも綿野の議論の要約にはなっていない。彼の議論の流れに沿いながら、それをすこしべつのかたちに翻訳したものであり、こういってよければ、綿野の主題による変奏曲である。

 

差別を差別として認識しない(できない)私たちにいかに差別を認めさせるか。これが反差別的な言説や運動が持たざるをえない困難だった。しかし、その困難ゆえに、反差別闘争とは、新しい差別を発見する/発見させるという、すぐれて創造的な行為ともなる。それは、ある意味で、私たちの日常の生活や風景を「異化」させる行為でもある。(311頁)

 

アイデンティティからシティズンシップへ

差別はいけないとみんなが言える時代の問題、そんな時代だからこその問題に、綿野はスポットライトを当てようとする。アイデンティティが重要であった一昔前なら、差別は差別されている側と差別している側のあいだの当事者の問題であったし、だからこそ、差別を批判できるのは差別されている被害者だけであったのだが、現在、差別を批判するという行為がみんなの手の届くものになってきた。批判は差別されている当事者だけのものではない。まったく当事者ではない、どちらかといえば傍観者的なポジションにいるにすぎない者が、差別している者を批判できるようになってきた。

それを綿野はアイデンティティからシティズンシップへのパラダイム・シフトと捉えている。あなたが何者であるかが、ある特定の属性――たとえば性別、人種、階級――によって定義され、それによって成立する特定のアイデンティティの持ち主たちからなる集団が社会のなかに林立していた時代から、不特定の人々に等しく与えられる普遍性によってアイデンティティが上書きされる時代へのシフトチェンジだ。ここで言う普遍性は、要するに、市民性=シティズンシップのことである。アメリカの法学者ジェレミー・ウォルドロンがヘイトスピーチ規制法の必要性を訴えるために持ち出したのは、「平等なシティズンシップの尊厳」(13頁)だった。

 

平等原理の普遍性、普遍的平等の尊厳性

シティズンシップと言うとわかりにくければ、人権との比較で考えてみるとよい。人権は、何かしらの功績によって獲得するもの(たとえば勲章)でもなければ、何かしらの条件を満たすことによって獲得されるもの(たとえば成年になることで与えられる選挙権)でもない。人権は、ただ人間であることによって、最初からすでに与えられている。

市民であることも同様だ。市民は、「なる」ものではなく、「すでにそうある」ものである。だからこそ、すべての市民は原理的に、無条件に平等であり、そこに例外はない。平等に市民であるわたしたちひとりひとりは、それぞれが同じように尊厳ある存在である。何かをしたから尊厳を勝ち得たのではない。だれもが平等に市民であるという普遍性にこそ、わたしたちの存在の尊厳の根拠がある。だからこそ、その尊厳を辱めようという行為は、ある特定の市民にたいする攻撃であるにとどまらず、そうした尊厳をもつすべての市民にたいする攻撃となるし、さらに言えば、市民は等しく尊厳を持つという理念にたいする攻撃である。だからこそ、すべての市民から批判されるのである。

シティズンシップへのパラダイム・シフトは、尊厳を冒涜する差別者――それは言ってみれば、自らの顔に泥を塗ることなのだ、普遍的な尊厳という高貴さを自ら貶め、尊厳を持つすべての存在をひとしく貶めるのだから――を、みんなが批判するための基盤を提供した。

それはよいことではある。しかし、そこからまた別の問題が出てくる。正義を振りかざす人間が、差別している者を無分別に徹底的な叩きのめすという状況が。それはSNS的なコミュニケーションに慣れたわたしたちにはお馴染みの状況だろう。炎上である。

正義厨は厄介な代物だ。しかしながら、たとえ正義を振りかざす人間が厄介であろうとも、そこで振りかざされる正義それ自体――差別はいけない――は正しいと言わざるをえない。少なくとも、シティズンシップという普遍性の理念、前提=条件としてのわたしたちの存在の平等性という理念に建つのであれば、差別を許容することはできない。差別をすること、それは、平等であるはずのわたしたちのあいだに序列を持ち込むことである。

綿野が差別に反対する一方で、格差に反対するのも、同じ理由からのことだろう。差別が社会的な不平等性であるとすれば、格差は経済的な不平等性であり、どちらも、平等という絶対的な前提条件にたいするアンチテーゼである。だからこそ、綿野は次のように力強く述べるのだ。「格差と差別にたいする闘いはどちらも平等を求める闘いである」(76頁)。「差別と経済というふたつの不平等の克服を目指す」(148頁)。綿野にとって、ポリコレ論争は、究極的には、「階級闘争」(151頁)の問題である。だからこそ、ポリティカル・コレクトネスという「汚名」があえて肯定される。「新しい左翼」であると同時に「古臭い左翼」でもあるという宣言が、あえて掲げられる(76頁)。

差別や格差を認めることは、平等原理のなかに不平等という例外を認めることであり、そのようにして密輸入された不平等は平等原理を矛盾に追い込み、内側から瓦解させるだろう。しかし、たとえそうだとしても、差別はいけないという正義をむやみやたらに振りかざしてよいものか。

 

差別はいけない。だとすれば、「差別はいけない」という定言命法を、いかにして実践するか。いかにしてそれを拡散させるか。自発的に受け入れる人だけではなく、それに正面切って逆らう人も、何となく気がすすまない人も、自分では従っているつもりで結果論で言うと従えていない人をも、ひとりの例外も出さずに、すべてのひとを巻き込んでいけるか。だがそれは、うっとうしいもの、押しつけがましいものでもある。

にもかかわらず、平等原理に立脚する以上、ここでだれかを放っておくわけにはいかない。絶対に受け入れそうにないからといって、そのような人々を見捨ててしまえば、自分で導入した普遍性原理を自分で裏切ることになる。平等は共同体の成員すべてに当てはまって初めて実現されるのであり、平等であることは普遍的であることと同義であるからこそ、すべてのひとの参加と実践は、到達すべき目標ではなく、前提であり、出発点である。

 

反差別=平等=普遍=正義の運用論、または自意識と代弁の問題

問題は正義の運用論、正義の使い方使われ方であり、正義の運用者のほうにある。批判者の自己意識の問題だ。傍観者的なところから差別を糾弾する一方、自分は本当に差別と共犯関係にないのかと自問する慎み深い懐疑的な自意識を持たない者は、自らを善と見なし、批判相手を悪とレッテル貼りすることで、自己省察のための機会を失うだろう。「わたしは正義の名のもとに語っている」という自己陶酔的な立場は、「わたしはもしかしたら間違っているかもしれないし、そればかりか、悪に加担しているのかもしれない」という自己懐疑的な立場と交わらない。

しかし、アイデンティティが中心的な役割を果たした時代では、あなたが何者であるかこそが本質的な問題だった。あなたが何者であるかが、あなたに批判する権利があるかどうかを決定していたからである。だからこそ、自分は当事者でないと認識しながら、それでもなお自分がアイデンティティを共有しない他者のこうむっている差別を批判しようとした者たち、差別されている者たちのために代弁しようとした知識人たちは、苦悩しなければならなか。サルトルがそうだったし、エドワード・サイードもそうだ。そしてガヤトリ・スピヴァクは「サバルタンは語ることができるか」と問うことによって、そうした代弁の本質的な暴力性を暴露していくことになるが、だからといってスピヴァクが差別を許容するような方向に流れていったわけではない。

綿野の議論がときに戦略的な逆張りに聞こえるのは、不協和音を響かせるような論者のテクストを自分の言説のなかに引き入れるからだろう。内田樹の代弁批判論(84頁)がそうだし、保守派からの代行的知識人批判(たとえばブルームやシュレージンガー)である。ローティによる警告もまた、この路線に入るといってよいだろう。大学の常識を社会全体に押しつけることは、「教育を受けていないアメリカ人が自分のとるべき態度を大学の卒業生に指図されることに対して感じるあらゆる憤り」(60-61頁)を招くだろう、という警告である。

アイデンティティという批判の前提条件が取り払われた現代において、批判者が自らを問い直すための契機そのものが失われてしまったのかもしれない(16頁)。そうなってくれば、批判はただいたずらに劇化するばかりで、批判から何らかの和解の可能性は導かれないだろう。自己目的化した批判、相手をやりこめることだけを主眼に置く批判は、端的に言って、不毛だ。

 

自意識的な区別=差別、または合理主義者の功利主義

このあまりに一方的な、あまりに徹底的な、苛立たしいほどに勝ち誇る正義厨にたいする反発から、差別していると批判された者による再批判が出てくる。いわれない差別を受けている、という再批判が。なるほど、たしかに、自意識的に差別している者は現代において批判されて当然であるし、それは確信犯である。白人はどの人種よりも優れていると心のそこから信じている白人至上主義者、男は女よりも優れていると公言してはばからない男尊女卑論者(またはその逆の女尊男卑論者)、そのような人たちは、自意識的な差別主義者である。

しかしながら、現在の万人の万人にたいする差別批判においてますます台頭しつつあるのは、自分では差別した「つもり」のなかった人々が、差別をしていると責められる状況である。

これはふたつのケースにわかれるだろう。一方において、「差別」と言われているものは「実は差別ではない」と強弁するタイプがある。科学的なエビデンスにもとづいて、人種間にはさまざまな生物的な「違い」が存在することを「証明」し、それにもとづいて、さまざまな「違い」に合理的に対応できる「区別された」社会システムを構築すべきだ、という議論だ。スティーヴン・ピンカーなどがこの立場に該当するし、ある意味ではピーター・シンガーもこの立場に入るだろう。合理化論であり、綿野の使っている言葉を借りれば「統治功利主義」である。

理念的な平等のために多大なコストをかけて現実の差異を是正するよりは、現実に存在している差異にもとづいてもっとも効率的なシステムを設計しようというのである。それは、右翼的言説がやるような積極的な差別肯定ではないが、左翼的言説が目指すような積極的な差別批判でもない。建前的には左翼的な差別批判を採用しつつ、理念レベルにおいては右翼的な序列性を前提として受け入れている。だから、右からも左からも採用可能な立場でもある。そこから生まれて来るのは、世界にはつねにすでに区別があるのだから、そこから区別ある社会――わたしたちがふつう差別と呼ぶもの――が生まれてくるのは必然であるし、その必然に逆らうのは不合理でもあれば非効率的でもあるという、シニカルな現実主義である。

 

ノスタルジー的な自意識的差別、または不平等原理の死守

なるほど、たしかにまったくの思い違いから、まったく歪んだ世界観から、そのように錯誤している人々もいるだろう。マイノリティが「優遇」されすぎていると言い張るマジョリティ意識であり、綿野が「現代的レイシズム」と呼ぶものである。白人によるテロと呼ばれるべき数々の犯罪行為――たとえばシナゴーグや黒人教会での白人男性による銃乱射事件――の根底にあるのは、屈折した喪失感だろう。不平等が前提であった時代は、序列が前提であった時代でもあった。そこでは、たとえば、白人で「ある」というただそれだけのことで、あらゆる黒人よりも自分は優れていると妄想することができただけではなく、実際に優れている存在として扱われたし、白人>黒人という不等号が社会全体において自明視されていた。

だからこそ、その不等号の存在を脅かすものは、自らの「特権」にたいする許されざる攻撃に映るだろう。それは言ってみれば、ある特定の人や集団にたいする具体的な差別が、平等原理そのものにたいする攻撃と見なされる現象の裏返しのようなものであり、両者は完全なパラレル関係にあると言ってもいい。不平等を脅かすもののひとつには、能力主義という人種を無効化するような別の序列システム――たとえば身体能力やIQのようなものが判断基準になれば、白人/黒人という不動の二分法ではなく、身体能力という流動的なグラデーション――による漸近的な切り崩しがある。しかし、これは別の不平等の導入であるという意味では、依然として不平等原則の肯定になっている。それは人種主義が頭脳主義や金銭主義にとって代わるようなものでしかない。しかし、平等理念の導入による全面的な転換という道筋もあるし、それこそまさに、「差別はいけない」とすべての人が批判できるような状態のことである。

どちらにせよ、旧来的な不平等を取り戻すたためには、不平等原理――回帰するアイデンティティ・ポリティクス、かつてのマジョリティによるアイデンティティ・ポリティクス、マジョリティとしての「特権」を失いつつあるマジョリティによるアイデンティティ・ポリティクス――を再強化するものが必要になる。完全な平等によりは、不平等のほうがまだましだとでもいうかのように。だからこそ、自分にしてみれば権利であり、非差別者からすれば特権でしかないものが脅かされているというルサンチマン意識は、先に挙げたような科学的エビデンス主義と結託しうる。疑似科学的な言説が、不平等の「証明」のために使われることは珍しくない。「アイデンティティ・ポリティクスとエビデンス主義の結託」(180頁)、であり、ニック・ランドのような論者が唱える暗黒啓蒙である。

科学的知の生産プロセスは、決して平等主義的ではなかった。

 

無意識の差別、または認知バイアス

統治功利主義者たちは、表立っては差別していると認めないだろうが、そこには平等原理以外の原理――合理性、功利性、効率性、コスト・パフォーマンス主義――を優先させているという意識はあるだろう。ルサンチマン意識を抱える者たちは、不平等原理を譲り渡そうとしないだろう。その意味では、この2つの反‐平等主義者たちは見えやすいし、見つけやすい。

本当に見つけにくいのは、差別をしているという意識などこれっぽっちもないにもかかわらず、差別的な行為をしてしまう人々である。そして、昨今の認知科学が明るみに出したのは、差別はいけないと思っている人々でさえ、直感レベルや反射レベルにおいては、差別的な反応をしてしまっているという事実であり、身内びいきのような情動的反応はわたしたちが進化論的に獲得してきた生物的本質の一部であるという現実である。綿野は潜在連合テストImplicit Association Testという心理学の実験結果を引用しているが、それはつまり、わたしたちが深く考えることなく脊髄反射的にさまざまなイメージを結びつけることを求められると、たとえ自意識的に反差別的である人でも、社会的に刷り込まれた差別的なステレオタイプ――黒人とネガティヴな価値観、白人とポジティヴな価値観――を反復してしまうというのである(171頁)。

それは要するに、わたしたちが純度100パーセントの理性的主体ではありえない、という残酷な通告である。もちろん、だからといってわたしたちが理性的ではないということにはならないけれど、わたしたちには理性的でないところがあること、そうした理性的ではないところがいわばわたしたちの理性的な判断とは無関係にしでかしてしまう差別的反応があることは、否定できない事実としてわたしたちに突きつけられる。理性による矯正は、反射的なレベルにまでは及んでいないらしい。

 

完全に非‐差別的で反‐差別的である/になること、それはもしかすると、ヒトという種の身に余ることなのだろうか。

理性だけでは割り切れない。感情的なもの、情動的なものが残る。いや、それどころか、輝かしい理性よりも、そうしたわだかまりや淀みのほうがわたしたちの生の感性にはよほど強い意味を持っているのかもしれない。理性にすべてを従わせることはできないし、理性がすべてを導くこともできない。しかし、もし理性が平等原理を掲げる一方で、そうした情動的なところが不/反‐平等的とまでは行かなくとも非‐平等的原理を推すことになれば、平等原理によって社会を構築し運営しようと望むわたしたちは内部分裂を避けられないことになる。では、どうしたらいいのか。

 

まず絶対的に重要なのは、ジョナサン・ハイトやジョシュア・グリーンがそうしているように、認知バイアスが存在することを受け入れることである(222‐25頁)。理性純粋主義は、いってみれば、生物的不可能事である。しかし、それを受け入れる一方で、差別的であることを合理的であるとするようなピンカー的な立場(186頁)には逆らわなければならないだろう。認知バイアスを受け入れたうえで、それとうまく付き合っていくことが必要になるのだが、果たしてそれは、理性的判断と直感的判断のモード切り替え(グリーン)や、情動的なところを取り入れた保守派の戦略の流用(ハイト)によってうまく乗り切れることなのか。

 

強い責任主体の応報主義から弱い主体の帰結主義へ、そして言語によるべつの応報主義へ

ここで綿野が強調するのは、昨今の認知科学行動経済学リチャード・セイラーのナッジ理論)、進化生物学や進化心理学によって、自律的な強い個人という近代のフィクションが失効したという点だ。ただし、それは、必ずしも21世紀の出来事ではなく、それはすでに20世紀から始まっていたという法哲学者の大屋雄裕の議論が参照されているのだが、物事の起源を実際の現象からさらに遡って考えようという態度、さらにいえば、大元の起源の後代の現象のあいだのねじれを前景化しようという態度は、綿野の議論で何度か繰り返される。

ある意味、逆説的な考え方を好むのは彼の思考の癖なのかもしれないし、そこにこそ、彼の分析の鋭さがある。綿野は現代レイシズム論者たちの、是正したのに差別が残存すること自体が、是正策では埋められない差異が存在することの証左であるという逆説(154頁)の問題性を正しく見抜いているし、差別をしているという意識もなしに差別をしている者たちに差別=不平等を認知させるためには、差別者と被差別者は実は平等であるという理念的議論に遡らざるをえないというフェミニズムの苦しさを指摘している(154頁)。

この点、もっとも興味深く、また微妙に問題含みに思われるのは、歴史修正主義の大元にあるのは、正統派の歴史観聖典を切り崩し、旧来の歴史観の盲点を正そうとしたカウンター運動――それはたしかに、原理的に言えば、唯一無二の真実という概念を揺るがし、複数的な真実やパースペクティヴ主義のようなものを導入し、それらを第一原理へと押し上げることになった運動でもあたかもしれない――ではなかったかと、本書の最初のほうで述べているところかもしれない(48頁)。綿野のなかにも、理念的なもの(平等性)への信条的なコミットメントと、現実的なもの(認知的バイアス)の現実的な受け入れという苦しさがある。自律的個人の概念の切り崩しについても、綿野はそれがもともと、差別主義者ではなく、反差別主義者によってなされたのではなかったかと、わたしたちに問いかける(241頁)。

しかし、一九世紀的な「自律」的な「個人」概念、ひいてはそのような「市民」によるリベラルな社会という考えは、まず反差別運動によってその失効が宣言されたのではなかっただろうか。なぜなら、反差別運動によって、近代的な「市民」なる存在は少しも「自律」しておらず、無自覚に差別的な言動に加担し、その責任を追及さえすれば、責任逃れをするような存在であることがあきらかとなったからである……反差別運動においては近代リベラリズムが前提とした、責任のありかを判断する構図が転倒されている。近代リベラリズム社会においては、ある行為の責任が行為者にあるのかどうか、という帰責問題は、行為者(の意図や予見可能性)を中心に考えられるが、反差別運動においては行為の結果をもとに考えられるからである。差別主義者と反差別主義者は一見対照的に見えるが、実は両者ともに行為の結果は、結果を引き起こした(と想定される)行為者に「責任」があると判断するのである。そして、このような責任についての考えが、ポリティカル・コレクトネスをめぐる言説が持つ息苦しさやうっとうしさの原因となっているのである。(241)

認知バイアス的なものによって「そういうつもりではなく」差別をした者を、責任主体として後付けで立ち上げるという応報主義は、まちがいなく、ポリティカル・コレクトネスにつきまとううっとうしさを増加させるだけだろう。それはローティがすでに警告したことでもある。要するに、学級委員長的な押し付けがましさがあるのだ。言っていることは正しいかもしれないが、だからといって素直に従えるわけではない、という状況である。

かといって、帰結主義と強い責任主体というコンビネーションに与するかぎり、応報主義と大きく変わるところはないということだ。意図はどうあれ、差別は差別であるとして、差別的言説を使ったものを罰するのであれば、それは結局、差別者のなかのわだかまり――理性的なものと情動的ところの矛盾――を理性的なほうを優先させて片付けることにしかならない。それでは責任のインフレは止められない。

唯一の抜け道は、帰結主義を採用しつつ、同時に、弱い責任主体を前提としすることである。その場合、対処法は、抑止、予防、治療の3つに還元されるだろうと綿野は論じる(258‐259頁)。しかし綿野がすぐ続けて述べるように、この方向性は、統治功利主義に絡めとられてしまう危険を秘めている。

こうして綿野が最後にほのめかすのは、またもや逆説的な議論の再転換だ。ダニエル・デネットによるグリーンらの議論への批判を援用しつつ、綿野は、もし自由意志の不在(すくなくとも自由意志の存在の脆弱さ)が科学的に否定されるとしても、道徳感情が進化論的に獲得されてきたという科学的証明は可能であるというデネット戸田山和久の議論を敷衍する。要するに、たとえ自由意志がないとしても、わたしたちの社会はあたかも自由意志があるかのように作られてきたし、そうした虚構のシステムを成立させるような道徳意識――システムのタダ乗りを許さない態度、ルール破りを罰したいという生物学的な欲求や傾向――を獲得してきている以上、応報主義もまた正当化可能ではないのか、というのである(261‐62頁)。

綿野がここで整理しようとしているのは、責任とは、行為的なものだけではなく、言語的なものでもあるという見方だ。こうして、綿野は、無限責任――「責任のインフレ」――を招く強い主体による近代リベラリズム的な啓蒙社会でも、責任なしの弱い主体を前提とした功利主義的統治社会でもなく、「言葉による責任」という第3の可能性を提示する。それは言語化によるクールダウンであり、衝動を暴発させないための安全装置のような役割を言語活動に求めようとする立場であるように思う。

それはもちろん、現代のSNS文化が旨とする瞬間的なコミュニケーションの逆を行くようでもあるが、同時に、Twitterのような文字的メディアをべつのかたちで使い直すこと、SNS的なコミュニケーションメディアのもつポジティヴな可能性を前景化させるためのオルタナティヴであり、みんなが差別を批判してよい平等原理の世界のなかで、いますぐにでも批判の暴力を行使したいといきり立つ自らの自意識を静かに穏やかに見つめ直すことであるようにも思う。

それはたしかにあまり強い答えとは言えないものではあるけれども、まさにこうした「弱い」ものをこそ、わたしたちは少しずつ、確かな手触りや手応えとともに、作り直していかなければならないのだ。

なにかしらの相手の行為を「不快」に感じたとしても、相手の「責任」を追求するまえに一度その「不快」さを言語化してみるべきだろう。そして、相手がなにか「不快」をアピールしているならば、その相手が「不快」をどんな論理で正当化しているか、よく吟味すればよい。そこに論理の飛躍や矛盾はないか。一見、合理的に見えたとしても、それは差別的であるかもしれない。言語によってみずからの行為を説明することは「責任のインフレ」=「無限の負債」を逃れるための最初の一歩である。(264頁)

 

言葉を反省的に使うこと、それは同時に、自らを相対化し、世界を異化するという、創造的な行為でもある。差別と闘うことに、自己を委縮させるような規律訓練の側面があることはおそらく否定できないだろう。自らの内なる差別(者)を見つけだすことでもあるからだ。しかしそれは、必ずしも自らを「正しい」姿に矯正することではなく、むしろ、新たな自分を作り出すことでもあるはずだ。

綿野はあとがきのなかで津村喬ブレヒトの異化論を差別論と読み替える議論(311‐12頁)や、ジュディス・バトラーの引用や反復を通じた「意味づけなおしの可能性」の議論(312頁)に言及しているが、それはつまり、差別にたいする闘いが、全体主義的な上からの押しつけになってはいけないし、かといって押しつけがましくはない統治功利主義的なアーキテクチャー設計になってもいけないということである。さらに別の言い方をすれば、下からのゲリラ的な創発性にこそ、可能性を見いだすべだということなのかもしれない。

 

 

付記

シュミットの自由主義と民主主義の定義はかなりエキセントリックであるし、たとえそれをわかってあえて使っているとしても、シュミットとナチの曖昧な関係について一言も言及することなしにシュミットを使うのは、綿野が批判する黙節法ではないのか。

綿野は日本国憲法におけるpeopleの訳語――人民か国民か――をとおしてたしかに国民の問題に言及しているけれど、ここで彼が導入すべきだったのは、ナショナリズムという枠組みではなかったか。たとえば市民という概念は国民とどのように重なり、ズレるのか。歴史的に考察するとどうなるのか。

昨今の認知科学行動経済学という科学的言説を参照することで、綿野は、差別の問題を、たんなる社会学的問題ではなく、社会学的なものと科学的なもののクロスロードにおいて論じることに成功しているし、その意味では、彼の議論が20世紀後半から21世紀にフォーカスを合わせているのは至極当然ではあるが、それは同時に、彼の議論から近代の問題を深く掘り下げるための契機を奪ってしまっているきらいがあるのではという気もする。

もちろん、近代の問題はきちんと言及されているのだが、シュミットの問題含みなところを語り落としているというのは、つまるところ、近代における国家と国民の関係を、批判的に問題化するのではなく、前提として受け入れて議論を進めてしまうという選択から不可避的に導かれた盲点ではなかったかという気がする。おそらく、天皇制の議論が、綿野のなかでは、近代をめぐる問題系を代替し象徴するものとして機能しているのだろうと推測するのだけれど、どうだろう。

こう言ってみてもいい。綿野はポリティカル・コレクトネスのアメリカにおける歴史的用法を詳述したり、海外の認知科学的な実験を参照したりするという意味では海外の知見に大いに依拠しているのだけれど――もちろん日本の論者も随所で参照されている――、その一方で、彼の関心の中心にあるのは日本の事柄なのだ。この海外の知によって日本を論じるというスタイルは、なるほど日本の文壇のひとつのフォーマットであり、それ自体として責められるべきものではないと思うのだけれど、ここにはある種の普遍性の問題があるだろう。生物学的な議論は果たして普遍的に援用可能なのか、という点である。ヒトは、文化という衣を剥げば、その下はどこでもいつでも同じなのか、という問題である。