うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

「天才とはわれわれの未来である」:アーノルト・シェーンベルク、上田昭訳『シェーンベルク音楽論選――様式と思想』(ちくま学芸文庫、2019)

生産的な人間は自分が再現したいと願っているものを完全にイメージして心の中に抱くことができるのだ。(149頁)*1

 

天才論というコア 

シェーンベルクの芸術観の根底にはあるのは天才論であるように思えてならない。

独り天才のみが存在し、未来は天才のためにあるのである。(123頁)

天才は自らを越えてしまう。天才は自らが意識的にはいまだ理解していないことを先取り的に引き寄せて実現することができる。そのようにして現実のものとなった作品は、現在に収まりきらないだろう。

 

シェーンベルクの知性主義

現在の大勢の趣味からすると、複雑すぎたり、馴染みが悪かったりする。しかし、シェーンベルクにとって、複雑さは肯定的なものである。わかりにくいからこそ、それをわかってやろうという理解への意志が生まれてくるのだ、とシェーンベルクは考えているらしい。シェーンベルクが念頭に置いている「困難、危険、神秘的なことに惹かれる」若者たちは、まちがいなく、「知的な人間」に属する人々である(30頁)。

シェーンベルクは頭でっかちなところがあるし、それを隠そうとしない。それどころか、彼は頭脳を持っていることを誇らしげに述べるし、だからこそ、「土地所有者」と署名した手紙を弟から受け取ったベートーヴェンが、「頭脳所有者」と署名した手紙を返したというエピソードを引き合いに出すのだろう(35頁)。彼にとって、芸術家は、本質的なところで、知的な存在である。たとえ芸術家が表層的には純真な存在であるように見えるとしても、たとえ本人は自らの知性に気づいていないとしても。

 

(しかし、このように天才論を展開するとき、シェーンベルクは自分をどちらの側においているのだろうか。彼は自らを天才の列に入れているのだろうか。シェーンベルクは「革新主義者ブラームス」という著名なエッセイのなかで、ブラームスが「現在の代々の音楽家の中の一人」というように「……の中の一人」と呼ばれることをひどく嫌ったというエピソードを紹介している。というのも、そのような物言いは、「あなたに並ぶ人間がほかに何人もいるばかりか、あなた以上の人間もいる」ということを意味するからであり、お世辞でも何でもないからだ、というのだ(44‐45頁)。この態度は、シェーンベルクも共有するものだったのだろうか。もちろんそんなことをシェーンベルクは匂わせることすらしないが、シェーンベルクの文章にただよう無自覚でもあれば完全に自覚的でもある、正当でもあれば過剰でもある自尊心はそこに見え隠れているようにも思う。)*2

 

音楽作品の問題、音楽聴取の問題

天才の作品は、過去から引き継がれてきた規則を機械的に遵守することによって生まれてくるのではなく、それらを創造的に逸脱していく。そうすることで、慣習的なものにすぎない規則を書き換え、押し拡げていく。

たとえば、シェーンベルクによれば、協和音と不協和音は白と黒というように二分される絶対的なものではなく、時代によって移り変わっていく流動的なものである(169頁周辺)。別の言い方をすれば、協和音/不協和音というカテゴリーは、音自体の問題ではなく、音を聞く方の受容の問題である。聞き手の記憶に依拠する問題であり、聞き手の理解力や寛容度にかかっている問題なのだ。これと似たような意味で、音楽の複雑さにしても、音楽自体の問題だけではなく、聞き手の方の問題である。

天才の作品は、現に存在する聴衆の寛容力や記憶力や理解力を越える。だからこそ、天才の作品の理解はいまここでただちに達成されるとは限らない。天才の表現は時代とともに古びるかもしれないが、その表現の根底にある思想については、新しいままである。というのも、それは永遠の秩序に属するものであり、時間という枠組みを超越するものだからである。

天才の作品は未来のものである。時間を超越する永遠の存在である。

 

天才と才能、心と脳、インスピレーションと労力 

ここにはいくつもの問題系/圏がオーバーラップしている。ひとつは直観によるショートカット的な達成と、頭脳による地道で鈍行的な到達であり、それはシェーンベルク自身の言葉を借りれば、「才能」と「天才」である。「脳 brain」と「心 heart」、「労力」と「インスピレーション」と言ってもいい(232頁)。

シェーンベルクにとって、才能=脳はいわばメチエであり、獲得されるべきものである。天才=心はインスピレーションであり、それはいわばやって来るもの、訪れるものであって、無理やり引き寄せられるようなものではない。こう言ってみてもいい。才能は過去において獲得されてきたものを現在において獲得する能力であり、その意味で、過去志向である。反対に天才は自らの内から新しいものを生みだしていくのであり、その意味で、未来志向である。才能は過去という有限の世界に閉ざされ、天才は未来という無限の世界に開かれる。

私は天才と才能の違いを次のように定義しようと試みた。才能とは身につける能力であり、天才とは自分自身を展開していく能力である、と。才能は自分の外部にある既存の能力を獲得することによって成長し、これらと同化し、遂にはこれらを自分のものにさえしていくのである。天才は、ただ自らの力を展開していくに過ぎないのだ。天才はその力を巻き戻し、広げ、開いていくだけのことである。才能が有限の題材、即ち既に与えられているもの、に精通することだけを必須としているため、たちまちにその頂点に達してしまい、頂点に達した後は下降していくのが常であるのに対して、天才は無限の中に新しい道を求めるが故に、その展開は生涯を通じて広がっていくのである。(「グスタフ・マーラー」155頁)

才能は知性に比することができるかもしれない。つまり才能は自分が何をしているかをよく知っている。その一方で、天才は自分が何をしているのか必ずしも知らない。自意識の欠如、反省性の不在が、天才にある。天才は直観主義なのだと言ってもいいだろう。

しかし、両者は互いに相容れないものではない。シェーンベルクがここで想定している関係性は、アンリ・ベルクソンの考える知性と直観の分業とパラレルなところがある。知性は全を部分に分割し、解体し、個別に把握することしかできないがゆえに、流れるものや動くものを、流れるものや動くものとして捉えることはできない。しかし直観は全を全として、一として、そのまま把握することができる。知性も直観も、どちらも必要である。というのも、ふたつは別々の用途のためのものだからだ。しかし、究極的には、直観のほうが知性よりも上位に置かれるだろう。シェーンベルクの考えのなかでも、才能と天才であれば、天才のほうが上にあるように思われる。

 

動機展開の問題、先取りの問題

シェーンベルクに考え方のなかで個人的に興味深いと思うのは、芸術創造の意識性/無意識性の問題が、二次的なところに置かれているところだ(たとえば85頁、93頁)。こう言ってみてもいい。シェーンベルクにとって重要なのは、芸術家の創作の起源がインスピレーションにあるかどうかではないし、創作の素材が唯一無二のものであるかどうかでもないらしい。究極的な問題は、素材を完全に掌握していることである。

作曲家にとってもっとも重要な能力とは、自分の書いた動機や主題のもっとも遠い将来までを一瞥できる力のことである。作曲家は自分の題材の中に存在する諸問題から生じる結果をあらかじめ承知しておき、それに応じて適宜、すべてを組織していくことができなければならない。(「革新主義者ブラームス」85頁)

しかも、素材そのものだけではない。素材に秘められている可能性のすべてを、ある動機に備わっている発展や変容のありとあらゆるポテンシャルを、未来を先取りするかのように、手中に収めていることである。

 

有機的全体の秩序 

素材とその可能性を有機的な全体に編成すること。それは、すべての部分に「そうであらねばならぬ」という必然性を与えることである。すべての部分がほかの部分と有機的に繋がれ、部分それ自体の存在のみならず、部分と部分の関係までにまで「そうであらねばならぬ」という必然性を与えることである。必然性の秩序――必然性という秩序、必然性による秩序――を作り上げることである。

カオスを統整すること、偶然性を飼いならすこと、それは、必然性の作品を創造することである。ある意味、インスピレーシンを受けた芸術家の作品というものからわたしたちが想像しがちなものとは、真逆のものだ。霊感の導きにしたがって、感情のおもむくままに、忘我のうちに一気呵成に生み出された作品、というようなありきたりなイメージとは、対極にあるものだ。

天才の心はインスピレーションに突き動かされるが、その手には熟練の職人が持っているのようなメチエが備わっている。才能によって訓練された手が、天才によって霊感を受けた心が先取り的につかみ取った未来を、いまここの現在のなかに出現させる。

なるほど、天才はメチエなしに有機的で首尾一貫した全なる作品を創造できるかもしれないし、それがどのような手段やプロセスによってなされるかは問題ではない。問題となるのは、起源でも中間でもなく、最終的なプロダクトである。まるで永遠に属するような作品を創造することによって、それ以外のすべてが贖われるかのように。

 

音楽社会学シェーンベルク

音楽創造についてのシェーンベルクの思想は、どこか社会学的な響きがある。それはおそらく、シェーンベルクが音楽を語るとき、音楽作品を構造分析するだけではなく、それが、抽象的で理想的な聞き手というよりも、具体的な、それゆえさまざまな好き嫌いを持ち、あれこれの偏見を持っている聴衆を念頭に置いているからだろう(そのコメントは、万人が創作者でありえる現代、創作物のよしあしがその内的なクオリティというよりも数量化できる人気――「いいね」の数、フォロワーの数――によって決定され、それすらも日々移り変わっていく確かならざる流行りでしかない現代にたいする、痛烈な一撃にもなっている)。

恐らく今日ほど芸術家を正しく公平に遇することが困難だったことは今までにあるまい。過大評価や過小評価が芸術という仕事にこれほど必然的な結果となった事も恐らくはいままでにほとんどなかったに違いない。また、誰が真の偉人で、誰がただの当代の著名人にすぎないかを区別するのがこれほど困難であった時代もないのである。無数の人間が制作を続けている。彼等がみんな天才だ、ということはあり得ない。極く一握りの人々が最初のペースを範示すると残りの者はそれを模倣するだけのことである。ところが仮りに、このような多くの模倣者共が生存競争に勝ち残りたいと思うと、いきおい彼等は目下市場で流行しているのは何なのかをいち速く見つけ出さなければならない。出版業者、新聞、雑誌、広告業界、などもこの点に関しては実に気を配っていて、何か新しいものを創り出した人間にはすぐに飛びついてくる。成功は才能ある者のみに許されることであるはずであるのに*3、今日ではあらゆる分野に蜜蜂のような勤勉さがしゃしゃり出て成功の蜜を吸ってやろうと懸命である。ために、エポックが一人の偉人にではなく群小作家の群によって代表される、という事態が惹起されている。真に偉大な人間はいつの時代においても未来へと逃避せざるを得なかったのではあるが、それにしても現在というものが今日ほど徹底的に凡庸な人間のものとなってしまったことはなかった。凡庸な人間はギャップがどれほど大きくてもそれをうめようともがくものである。彼等は未来に対する要求さえ持ち出してくる始末である。誰だって今日のためだけを考えて創作したい、などとは考えはしないのだ。独り天才のみが存在し、未来は天才のためにあるのである。このような中にあって、われわれはどのように正しい道を見出せばようのであろうか。高い標準があまりに広く分布しているので広さに気を取られて高さを失念してしまうような時、誰が本当に偉大なのかを区別できるだろう。われわれはアルプスのことを非常によく話題にするのだが、モンブランについてはあまり口にしない。(「グスタフ・マーラー」122‐23頁)

ファウスト博士』を執筆中のトーマス・マンのために12音技法について情報提供したアドルノのことを、12音技法をあたかも「メソッド」であるかのように語ったと糾弾したシェーンベルクではあるけれど、彼にはアドルノと同じように、音楽社会学者的な性向を持っていたようにも思う。音楽創造と受容の問題がシェーンベルクの思想のなかには色濃く存在しているし、そこには歴史的時間の問題が絡み合っている。だからシェーンベルクは意外なほどに「流行」の問題をたえず考えている(自分の作品を流行させようとしているからという理由でないことはまちがいないと思うが)。

シェーンベルクの「凡庸」についての考察は、その意味で、きわめて面白い。シェーンベルクによれば、凡庸さとは、共時的なものではなく、通時的なものである。さらに正確にいえば、ふたつの軸が交錯したところに出現するものなのだ。凡庸とは、かつての愚かな自分の振る舞いが、現在において自分よりも下の身分の人間によって実践されているときに、用いられる言葉である。それはつまり、過去の劣った自分を現在において体現する者を、過去の自分よりも優れた存在となった現在の自分が否認し、嘲笑する態度である。歴史的な距離と、社会的な上下関係とがクロスする。

百姓の所作は不作法なのではなく、ちょうど彼等よりも身分の高い連中がもっと愚かであった頃ふるまっていたのと同じで、古風であるに過ぎないのである。従って、凡庸な人間の表わすものは遅れた倫理と、かつてはもっと高い地位にある人達のものであった精神状態とである。そのようなわけで、それは当初から凡庸だったのではなく、新しい、より優れた習慣に押しやられたことによって初めて凡庸になったのである。しかしながら、ひとたび凡庸になってしまったものは再び高尚なものになることは不可能である。凡庸になってしまったものは、あくまで凡庸にとどまらなねばならないからであるから。(「グスタフ・マーラー」130頁)

ここでシェーンベルクが思いえがいている歴史観は単線的で不可逆的であり、わりと単純な進歩史観に与しているように見える。その当否はさておき、ここで興味深いのは、天才という個人の卓越性や傑出性をあれほど言いつのったシェーンベルクが、他方においては、凡庸さの普遍性を認めると同時に、身分や階層といった集団的なカテゴリーの影響力を認めている点だ。誰もがかつては「凡庸」であったし、その凡庸さは、個人的な属性というよりは、集合的な属性である。天才は社会に対立するかもしれないが、それはあくまで社会の一員として、たとえ今現在は否認しているとしてもかつては間違いなく属していた社会の元一員として、社会に対立するのである。天才はいまだない未来のわたしたちの共同体に先取り的に属しているだけなのだ。

 

天才の拓く未来、ファウストツァラトゥストラ的な引き揚げ

とはいえ、シェーンベルクの最終的な関心は、歴史に埋没することでも、ある歴史的時点において傑出することでもなく、歴史や時間を超越することにあるのだと思う。もし具体的な表現というものが、歴史的特殊性というものを完全には免れえない(たとえば、ある時代において慣習的に用いられていた和声や形式)としても、そのような表現ツールを用いる思想は、それを越えるだろう。様式は歴史的であるが、思想は永遠のものである。

天才は現在にとっては無価値である。なぜなら現在と天才とはお互いに関り合うところがひとつとしてないからである。(「グスタフ・マーラー」161頁) 

天才の傑出性、未来性、永遠性を信じるシェーンベルクは、どうしようもなくロマン主義的な思想家であった。しかしながら、天才の感応力をシェーンベルクが希望をこめて語るとき、彼はむしろニーチェツァラトゥストラが説いたような超人たちの共同体を、すべての人間が超人へと引き上げられた世界を、凡人が天才に追いつく世界を、すくなくとも、天才が照らし出した輝かしい世界をわたしたちも享受し、歓喜する世界の可能性を、夢みていたようにも思う。

天才とはわれわれの未来である。いつかわれわれが奮闘し抜いて自分の進路を開拓した時、われわれもまたそうなるのだ! 天才が道を照らすと、われわれはそれに従おうと努力する。天才のいるところは、既に光は明るい、それなのにわれわれはこの明るさに耐えることができないのだ。われわれの目は眩み、いままでのところまだ決して真の実在とはいえず、単に現在でしかないようなある一つの実在を見るだけのことである。しかし、より高次の実在が持続していくと、現在は滅びてしまう。未来は永遠であり、従って、より高度の実在、即ち、われわれの不死の魂の実在は未来においてのみ存在するのである。

天才が道を照らすと、われわれはそれに従おうと努力する。本当にわれわれは必要なだけの努力をしているのだろうか。われわれは現在にあまりに縛られすぎてはいないだろうか。

われわれは従っていくことになるだろう。何故なら、そうすべきだからである。われわれが好むと好まざるとに関らず、である。それはわれわれを引き揚げる。

われわれは従っていかなければならない。(「グスタフ・マーラー」161‐62頁)

なぜ従わなければならないのか、シェーンベルクはその根拠をあきらかにはしない。ここにはまちがいなく、ゲーテの『ファウスト』第2部終結部のエコーが、マーラーの第8交響曲のクライマックスの合唱のこだまが、高らかに響き渡っている。

永遠に女性的なるものが Das Ewig-Weibliche

わたしたちを引き揚げる Zieht uns hinan

この強制性と盲目性は、危うい。その危うさは、英雄崇拝の招いた歴史的な惨事をいくつも数え上げることができるばかりか、まさにその渦中にあるとすらいっていい現在、ますます高まっているといわざるをえない。しかしながら、ここにある輝かしい可能性、わたしたちひとりひとりがともにより高いものを目指し、ともに努力し、ついにはその高みにたどりつくという美しい可能性を、すげなく退けることも、別の意味で危ういだろう。シェーンベルクマーラーについて語った道こそが、唯一無二の正しい道ということはないだろう。しかしそれでも、シェーンベルクマーラーは、万人の天才化、来世的なものの未来における実現という、ひとつのユートピア的な可能性をわたしたちに示してくれているのだ。彼らの言葉によって、そして、彼らの音楽によって。

*1:この言葉は、マルクスのかの有名な一節を思い出させる。人間の想像力は、複雑な構造物を作り上げることができる蜜蜂よりも優れている。なぜなら蜜蜂は本能によってそれを作り上げるのみであるが、人間は想像力のなかにおいて、のちに実際に作り上げようとするものを先取りして思いえがくことができるからである。

*2:シェーンベルクブラームスをよく理解し、愛好していたことは、次のような的確なコメントによくあらわれている。「彼の音楽にはワーグナーヴェルディーのような激しい劇的なほどの感情の爆発は見られないにせよ、その他ならあらゆる種類の表現が存在するのである……歌曲、室内楽交響曲作家としてのブラームスの本領は、叙事詩的抒情詩といったとこにあると考えるべきであろう」(110頁)。そしてこれはあくまで個人的な意見ではあるが、ブラームスシェーンベルクは、大元となる動機の野暮ったさや旋律性の弱さと、それを埋め合わせるかのような緊密な動機展開の手つきの卓越さにおいて、きわめて共通するところが多いように思う。とはいえ、ブラームスにはまだ自然にほとばしり出たような人好きのする美しい旋律はあるが、シェーンベルクは基本的にメロディーメイカーではない。12音技法が可能にしたのは、旋律創造というフリープレイを、音列作成という縛りゲームにモードチェンジすることであったようにも思う。それは、作曲の中核を、動機の発明ではなく、その展開や有機的総合のほうにシフトすることでもあったように思う。

*3:しかし、このように、才能ある者のみ成功するべきであるとする考えは、シェーンベルクが究極的には、外見と中身の統合を志向していることの現れであろうし、そのような統合の切断を志向する文化産業(とアドルノなら呼ぶであろうもの)の虚偽性の批判でもある。別の言い方をすれば、シェーンベルクは、虚偽意識の虚偽性を糾弾し、それを真正なものによって置き換えるべきであると考える古典的な啓蒙主義者であるというべきかもしれない。