うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

作曲の仕事を理解すること:チャールズ・ローゼン、キャサリン・テマーソン、笠羽映子訳『演奏する喜び、考える喜び』(みすず書房、2022)

テマーソン 音楽は演奏されなくても存在するのでしょうか?

ローゼン ええ、存在します。音楽を頭の中で演奏解釈したり、それを耳にすることなく、詩のように読んだりすることができますから。それは、演劇作品を読んだり、その演出を想像したりするのと同様、想像力の喜びです。(98頁)

 

なぜブーレーズの翻訳の第一人者にして、フランス音楽に造詣の深い笠羽映子が、アメリカ人ピアニストにして音楽学者でもあったチャールズ・ローゼンの対談集の翻訳を手掛けたのかと不思議に思ったが、原著はフランス語なのだという(英訳は最近出版されたとのこと)。

 

チャールズ・ローゼンは、ベートーヴェンの後期ソナタやバッハのフーガの技法ゴルトベルク変奏曲をはじめとして、ピアノ曲の主要レパートリーに入る作品を少なからず録音してはいるし、個人的に好きな演奏ではある。知的な抒情性、構築的な音の配置がとても好ましい。控えめというよりも、品の良い薄味。

しかし、純粋にテクニック的な意味では、ピアニストとして超一流とまではいかないのではないかという気もするところではある。タッチや指回りにすこし物足りないところがある。ピアノの響きがすこし浅い。ローゼンの演奏だけ聞いているとそこまで気にならないが、その後に他の有名ピアニストの録音を聞くと、あくまで相対的にではあるけれど、ローゼンの演奏に欠けている技術的な卓越性に気がつく。

 

チャールズ・ローゼンは、もしかすると、ピアニストというよりも、音楽家と呼ぶべき人物かもしれない。フランス文学で博士号を持っているのは、ピアニストのなかで彼ぐらいではないだろうか。彼が音楽について語るとき、そこでは必然的に、文学や芸術といった同時代の文化的潮流が、さりげなく、しかし、きわめて説得力のあるかたちで、引き合いに出される。そこにローゼンの芸術家としての感性の的確さを感じる。

ほとんどすべての連作歌曲、シューベルトシューマンベートーヴェンの連作歌曲は、連作風景画です。さて、十八世紀末頃に、詩や観光案内や学術書の中で書かれた風景描写を分析すると、それらが二つのレヴェルの時間を喚起していることが分かります。詩人や作家たちは現在のとてもはっきりした時間を選び、そこに過去の刻印、私的な感情の思い出、あるいは風景の中でつねに目立つ地質学的痕跡を付け加えます。ベートーヴェンシューベルトはそうした二つの時間レヴェルを音楽で表現する手段を見つけた最初の作曲家たちです。(71-72頁)

 

 

ローゼンの自伝的な語りも面白いが、本書の最大の魅力は、批評と分析をめぐる思索だろう。ローゼンが批評的センスを持った分析家であることは間違いない。彼の演奏は知的な解釈という言葉がぴったりくるような趣味の良さがあるからだ。

しかし、興味深いのは、ローゼンが分析を音楽家にとっての必須のものとみなしていないらしいところだ。それは他の音楽家についても、自分自身についても当てはまることらしい。

または、こう言ってももいい。分析とはかならずしも狭義のアナリーゼ、楽譜を前にして頭で考えることだけではなく、楽器の前に座って、指に弾かせながら咀嚼していくことでもある、と。ローゼンはエリオット・カーターピアノ曲「夜のファンタジー」について、そのようなアプローチをとっていたようだ(25頁)。

ここから引き出されるのは、分析とはするかしないかではなく、誰もがしている(その人なりのやり方で)というテーゼである。

結局のところ、すべての人がつねに分析します、少しは… 演奏とは、音楽に対する自己の考えを提示するひとつの方法です。演奏家はひとつの作品を演奏しつつその認識を深めていき、聴衆に提示できるような総合的な理解を手中にするに至るのだということは明らかです。けれども一般化はほぼ不可能で、分析と演奏の関係は各々の音楽家について、また各々の作品についてすら異なると思います。(25-26頁)

ここでローゼンがほのめかしているのは、分析はあくまで分析対象あってのものであり、できあいの分析手法を機械的に個々の対象に当てはめるのは間違っているという立場であるように感じる。その意味では、ローゼンはガチガチの原理主義者ではなく、柔軟な現場主義者(しかし、現場の要請に流されるままになることはない、独立の人)である。

 

ローゼンの柔軟さは、他の音楽家たちとのアンサンブルの仕方に如実に現れている。彼にとって分析に立脚した演奏スタイルはソロのものであるようだ。他人と音楽をやるときに重要なのは、作品や分析というよりも、他の音楽家たちのほうである。オーケストラとやるときは、「分析に頼ることなく、本能的に反応」するとさえ述べている(126頁)

 

分析は、演奏家にも批評家にも必要なものではあるけれど、それが必要な理由は異なるとローゼンは考えているらしい。あらゆる分析が演奏家にとって必要というわけではない。その意味で、批評家と演奏家は。「同じひとつの作品の異なる諸側面に注意を促してい」るのであり、補完関係にある(29頁)。

演奏家と分析の関わり方についてはさまざまなアプローチを許容するのに、面白いことに、批評家の役割となるとローゼンはかなり厳格主義者になる。「私の考えでは、批評の役割は、作曲家の用いた技法的な手段を分析することです」(30頁)。

しかし、批評を独立した営為として認める方向性をローゼンが全面的に否定しているわけではない。むしろその点において、ローゼンはシュレーゲルのいう意味での批評、自律した営為としての、芸術作品と並び立つものとしての批評というスタンスを支持しているとさえ言える。

批評は十九世紀初めから独立した活動として認められています。一七九八年にフリードリヒ・シュレーゲルは、諸々の偉大な芸術作品はそれら自体、互いに解釈し合い、評価し合うものだと説明しています。したがって批評は、それもまた芸術作品でない限り面白味のないものです。(41-42頁)

それは裏を返せば、批評のハードルを怖ろしく上げるものでもある。

ただ、これに続けて、ローゼンは文芸批評がテクストから遠ざかり、それ自体が自立した作品となりうる――批評している作品を読んでいないとしても、読んでいて楽しい批評はある――のにたいして、音楽批評は「楽譜の[ママ]可能なかぎり近くにとどまる必要」あると付け加えている(42頁)。

ともあれ、ドイツ・ロマン主義の批評観——「批評の役割は説明することであり、価値判断を下すことではありません」(43頁)――にたつローゼンにとって、作曲家の視点から作品を見るべきであって、その視点からすれば、すべての作品は「つねに良いもの」なのだ(43頁)。つまりそれは、作品を相対的に評価するのではなく、絶対的に評価すること、作品それ自体を自律したものと捉え、その存在そのものを内在的に捉えようという立場であると言ってもいい。

それは、作曲家を絶対視することではない。重要なのは、作品を、一貫したかたちで分析できるかどうかなのだ。この意味で、ローゼンは作品至上主義とでもいうべき立場を取っていると言っていいだろう。たしかに作曲家の自伝的側面を理解することは有益かもしれないが、本当に重要なのは、「作曲の仕事を理解すること」である(46頁)。

 

巻末の書誌情報を見て、『ソナタ諸形式』(原著1980年)の翻訳があることを知った。1997年出版。しかし、「アカデミア・ミュージック」という聞いたことのない出版社からだ。近隣図書館に所蔵しているところはないし、古本は高値。

古典派音楽の様式』(原著1971年)は音楽之友社から出ていて、前にざっと読んだが、翻訳はいまひとつのように感じた。

シェーンベルク』(原著1975年)は昔読んだが、これはいい本だった。

もうすこし新しい本となると、『ベートーヴェンを”読む”』(原著2002年)、『ピアノ・ノート』(原著2002年)、『音楽と感情』(2010年)に翻訳がある。後者2冊は読んだと思うが、内容は覚えていない。