うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

カオスはカオスのままに:インゴ・メッツマッハーという倫理的な指揮者

インゴ・メッツマッハーにとって音楽はなによりも現象であり、出来事なのかもしれない。音があってその後に音楽が来るのではない。音がつねにすでに音楽なのだ。

こう言ってみてもい。メッツマッハーの考える「音楽」は、ノイズやカオスやサイレンスを含めてのもので、孤立した音というよりも、複数の音の群れが原初的なイメージとしてあるのだ、と。

自伝的でもあれば、敬愛する作曲家たちについての回想や擁護でもあり、かつ、彼の音楽美学論でもある彼の著書『新しい音を恐れるな』によれば、彼の父はプロのチェリストハンブルク州立歌劇場で弾き、バイロイトでも弾き、のちには四重奏団のチェロ奏者を務め、大学でも教えた。メッツマッハーは父のため、父の教え子のために、ピアノ伴奏をしていたという。西洋音楽の古典レパートリーが自明の環境であるような空気のなかで彼は育った。

しかし、彼がこの本のなかで取り上げるのは、近現代の作曲家ばかりで、筆頭に来るのはアイヴズ、末尾を飾るのはケージ。出てくる順に上げると、アイヴズ、マーラードビュッシーメシアンシェーンベルク、ヴァレーズ、シュトックハウゼン、ノーノ、ハルトマン、ストラヴィンスキー、ケージ。

『新しい音を恐れるな』というタイトルからわかるように、本書は「新しい音」についての本だから、このようなリストになるのは当然ではある。それでも、11人の作曲家の内、ドイツが4人(マーラーシェーンベルク、ハルトマン、シュトックハウゼン)とトップで、フランス3(ドビュッシー、ヴァレーズ、メシアン)、アメリカ2(アイヴズ、ケージ)、イタリア1(ノーノ)、ロシア1(ストラヴィンスキー)なのに、アメリカの作曲家ふたりが全体のフレームをなすかのように置かれているのは、意図的でなくて何であろう。アイヴズのあたりまえの混沌と、ケージのあたりまえの偶然――それはどちらも、ある意味では、コンテンポラリーまで含めたヨーロッパ音楽を規定するものを根底から覆すものである——が、彼の音楽のフレームをなしているのかもしれない。

メッツマッハーが指揮者になったのはむしろ成り行きで、もともとはピアニストだった。プロのコンサート・ピアニストになるほどではなかったと著書のなかで述べてはいるが、技術的に未熟だったというわけでもなさそうである。シェーンベルクを弾いたことがきっかけで、現代音楽専門の室内団体アンサンブル・モデルンのピアノ奏者として誘われ、そこで現代音楽に深くかかわっていくことになる。

シュトックハウゼンのテープと生演奏の作品をやるために、時間をかけて譜面をさらい、リハーサルを繰り返すなかで、変更不可能な既存の音にリアルタイムで音を重ねていくことの面白さに気づいていくくだりは、読んでいてひじょうに思白い。それは、自発的で有機的なライブのパフォーマンスとはまったく別のパラダイムに属する、異質で複数的な時間経験だったのではなかろうか。何度でも再生可能で、何度やっても同じになる音に、揺らぎやブレを原理的には排除できない人間が合わせる。「アンサンブル」と呼べる形態ではあるが、その意味は、電子音楽以前とは決定的に異なっている。時間的なアスペクトのコントロールを完全に手放す。それはプレレコーディングされたテープが司るものだから。にもかかわらず、依然として時間的なものである音楽を、生身の奏者として有機的に補完していく。そのような経験がメッツマッハーの演奏者としての音楽観の深い部分に埋め込まれているらしい。

だから指揮者としての彼が出す音はきわめて客観性が高いように聞こえるけれど、その客観性の水準は、指揮者個人にも、音楽作品それ自体にもないような気がする。彼が目指すのは、静的な構造としての音楽でもなければ、動的に運動する構造としての音楽でさえなく、必然として表象される(しかし、表象に失敗する可能性もある)偶然としての音群という出来事=現象なのかもしれない。

複数の音が同時に鳴らされるとき、それは、それらの音のあいだに和声的な意味での必然性があるからではなく、同時に鳴ったからそれらの音はひとつの現象になったのだというニュアンスがある。だから、分析的指揮者はどちらかというと音が少ない作品を振らせると、分析対象が足りず、分析力が空回りしてしまっている印象を受けることがあるが、メッツマッハーの場合、そうならないような気がする。難しい音楽も簡単な音楽も、複雑な音楽もそうでない音楽も、彼にしてみれば、現象としては同じ次元にあるのかもしれない。

きわめて理想主義的で、きわめて倫理的な音楽家でもある。1957年生まれであるメッツマッハーは、「音楽をやるドイツ人」であることをきわめて深刻に、度が過ぎるほど真面目に引き受けようとしている。それは、ナチズムというドイツの傷、政治化された音楽の危うさ、音楽と政治の本質的な不可分性を、問題として引き受けることでもある。しかも、彼が敬意を表する亡命ドイツ人音楽家たち——フリッツ・ブッシュ、エーリッヒ・クライバーオットー・クレンペラー—―とは別のかたちで。

彼がハルトマンに特別な思い入れを示すのは——メッツマッハーはバンベルク交響楽団とハルトマンの交響曲全集を録音している——、ハルトマンがドイツにとどまり続け、絶望的な状況のなかでも音楽を手放すことがなく、音楽で抵抗を表現し続けたから、戦後は次世代の若者のために尽力したからなのだろう。メッツマッハーがノーノに触発されたのも、同じような理由のようだ。政治が音楽に優先するということはないかもしれない。作品や演奏の自律性を否定しているわけでもないと思う。しかし、「いまここ」の世界にあるものだからこそ、音楽は政治が存在しないかのように振る舞うべきではないのであり、イノセントであってはならない、ということなのだろう。

メッツマッハーの公式録音やYouTubeに上がっているものを見ていくと、マイナーなメジャーのスペシャリストという印象を受ける。プフィッツナーやシュレーカーやエネスコのオペラ録音がある(パリオペラ座でエネスコの『エディプス王』をやったときのインタビューではかなり流暢にフランス語で答えている)。EMIと契約していたときは、ハンブルク州立歌劇場の大晦日コンサート「20世紀音楽なんて怖くない」のライブ録音が出ていたが、現在では絶版で再版もされていない。モーツァルトのダ・ポンテ三部作やメシアンの『アッシジ』のDVDも同じ有様。昨今流行りのオーケストラの自主録音にも恵まれていないようだ。シュトラウスの『英雄の生涯』とヴァレーズの『アメリック』がセットになったものがあるが、雑に調べたかぎりでは、それしかない。Kairosの現代音楽の録音はあるが——そのなかで一番の大物といえば、ウィーンフィルとのメシアン『彼方への閃光』だろう——、いわゆるメジャーなレパートリーの録音はきわめて少ない。彼の音楽家としての全体像をつかむのは難しい。マニアックなニッチを嬉々としてやっているような印象もある。

ともあれ、指揮者メッツマッハーの音楽は、観念や知性が勝ちすぎているというわけでもなく、肉体的な愉悦さを真面目に発散するようなものになっている。すくなくとも、近年の指揮をするメッツマッハーは実に愉しそうだ。大のサッカー好きというのもあるのか、音楽を知的なものに閉じ込めようとしない。どこかとても素直なのだ。

分析的で、即物的で、その場のノリに任せている感じはないが、かといって、ブーレーズ路線でもない。響きの透明性や正確さをひたすら追求しているのではない。流れの感じのよさに依拠しているわけでもない。気持ちのいい流れはあるけれど、それは、作品に内在するパルスの具現化というよりも、そのような内的なパルスを別の時間的秩序に展開しているかのような、不思議な距離感がある。

というよりも、『新しい音を恐れるな』を読んで、彼の録音をいろいろと聞き直してみて、なぜむかし『ヴォツェック』の録音にピンとこなかったのかがよくわかった。60年代後半から70年代初頭のブーレーズの指揮をひとつの規範としてクラシック音楽や現代音楽を聞き始めた身にとっては、響きの純粋性と構造の透過性こそが絶対であり、つまるところ、指揮者という客観的超越性による音楽作品の全体性のコントロールされた具現化を求めていたのだ。そしてメッツマッハーの音楽は、それらを否定するわけではないが、それらをさらに脱構築するような、別のパラダイムに属するものである。

響きを調和させることにこだわりすぎない音楽。内的強度や密度をコントロール対象からあえて外した音楽(音の物理的な大小や粗密に従って勝手に変化していくだけであるような音楽)。

(しかし、そのような聴点に立つと、ブーレーズがいかにすべてを調和的な響き——協和音も不協和音も含めて——に還元しようとしていたのかということにも気づかされるし、なぜ彼がケージやクセナキスを振らなかったのかということもあらためて理解できる)。

それはもしかすると、「虚ろ」なものかもしれない。ヴァレーズ的な音響という聴点から、西洋音楽史を逆照射するようなものかもしれない。しかし、だからこそ、作品の音楽構造に収まりきらない異質なものをあえてシンクロさせた『ヴォツェック』の酒場のシーンのようなところは、メッツマッハーの独壇場である。

カオスとしての音楽を、カオスのままに提示すること。

 

『新しい音を恐れるな』からの引用

 

音楽は、異なった現象をいくつも同時にとらえることができる。しかも驚くべきことに、われわれは全体像を視野に置いたまま、現象を個別に認識できるのだ。ここに言語との根本的な違いがある。少なくともぼくは、ふたりの人の話を同時に聞いて、両方を理解することはできない。もし実際にやっても頭が混乱するだけで、結局はどちらの話もわけがわからずに終わ(34頁)るだろう。/しかし音楽が付けば、話は別だ。二人、あるいは三人の歌声についてゆくぐらいなんてことはない。多い方がかえっていいぐらいだ。何人もが同時に歌う重唱は、どんなオペラでも見せ場のひとつだ。たがいに関連を持ち、しかも明らかに違うものがいくつも同時に鳴り響くとき、音楽はその本領を発揮するようにみえる。(35頁)

ひとつの音は、単なるひとつの音ではない。もっと多くのものからできている。いったいどういうことだろう? サモスの哲人ピタゴラスが、二千五百年以上も前にこれを発見した。ひとつの音は、いくつもの音の複合体なのだ。/一本の開放弦は、全体として、その全長にわたって振動するだけではない。部分的にも振動する。考えられる限りのあらゆる比率で。そこにさまざまな波長の音を含んだ、ひとつの音のスペクトルが生まれる。これがいわゆる倍音列だ。音楽の世界は、その上に成り立っている。/それは自然が与えた音楽の根本原理であり、いついかなるときにも作用している。歌う、叩く、吹く、弓でひく、どんな手段であれ、音を出せばかならず倍音が発生する。たとえぼくたちが意識しなくても、つねに存在している。(93頁)

ぼくにとって彼の音楽との出会いは、忘れられない経験になった。シュトックハウゼンの音楽が全身を駆けめぐった。もっともらしい繊細さはここでは似合わない。求められているのは、力、正確さ、そして冒険心だ。ここにはテープという客観的な基準がある。しっかりした記憶力や時間感覚など、音楽をやるうえで基本となる能力が身に付いていなければ、この課題はこなせない。/それをやり遂げたことは、表現がどうこうという蘊蓄とは無縁の世界へ、ぼくはようやくたどり着いた。現に存在するもの、検証できるものだけが重要な世界。ぼくにとっ(138頁)て、これは束縛からの解放だった。(139頁)

シュトックハウゼンは、音楽には使命があると信じていた。その使命とは、人間の耳が音として認識できる振動の小さな一断片のなかに、原子の微細な振動から、宇宙空間における恒星や惑星の巨大な揺れにいたる、この宇宙全体を映し出すことだ。彼はそれを音楽に求めた。ぼくたち人間のちっぽけな生をはるかに超えた課題だ。」(148頁)

ノーノはぼくの信念に力を与え、ぼくの自信を深めてくれた。ぼくの胸の奥底に眠っていた理想を呼びさまし、表面に浮かびあがらせ、ぼく自身にはっきりと見せてくれた。自分だけの道を進む勇気、自分の内なる声に従って行動する勇気を、ぼくに与えてくれた。これはすべて、具体的にこうしろと言われたわけではなく、ぼくと話すときや共感を示してくれるときの彼の口調や態度から、自然にそうなったのだ。/彼と一緒にいると、自分が高められ、価値のある人間になったような気がした。自分でも知らなかった力が湧いてくるのを感じた。若者にとって、これ以上のことがあるだろうか。彼の作品と彼が残してくれたものは、今もなお、ぼくにとっては導きの星だ。(172頁)

ハルトマンは、まさしくドイツが生んだ偉大な作曲家のひとりだ。グスタフ・マーラーとヴォルフガング・リームの間を、そしてアルバン・ベルクとハンス・ヴェルナー・ヘンツェの間をつなぐ役目を、ハルトマンは果たしている。/もし彼がいなかったなら、音楽の発展の流れはまったく違ったものになっていたかもしれない。ドイツの歴史のもっとも暗い時期というべき数年間、ハルトマンはドイツ音楽の大いなる伝統の価値を守り抜き、後の世代に引き継いだ。だからぼくは彼を、ひとりの人間として手本にしたいと思うのだ。(185頁)

シューベルトとノーノ、ベートーヴェンシェーンベルクモーツァルトストラヴィンスキーは、その精神においてきわめて近いとぼくは確信している。切実な思い、底知れぬ深淵、野性味、形式を求める苦闘、遊びへの欲求、それらはなにも変わっていない。ぼくたちはただ違う時代に生きているだけだ。(238頁)

 

 

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