うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

「万人の万人にたいする闘争」の語学的なイメージ

ホッブズのあの有名なフレーズ「万人の万人にたいする闘争」だけれど、この訳語でいいのだろうか。ラテン語だと bellum omnium contra omnes。ラテン語は格変化するので、所有格 omnium と 対格 omnes で語尾が異なっているが*1、元の単語は omnis。ここでは複数形で使われており、Wikitionaryによると、単数形の意味は every、複数形の意味は all。

「万人の万人にたいする闘争」は語学的には間違っていないはずだ。

 

しかし、Wikipedia の Bellum omnium contra omnes の項目を見ると、1642年に出版されたラテン語の『市民論 De Cive』で登場したこのフレーズを、他の英語の著作でホッブズ本人がいくつかの異なった言い回しに移し替えているのだという。

リヴァイアサン』(1651)では「warre of every one against every one」、「a war [...] of every man against every man」、「a perpetuall warre of every man against his neighbour」となり、ラテン語版の複数形‐複数形のペアから、から単数形の every-every にスイッチしている。

人口に膾炙したこのフレーズは、さらなる別バージョンも生み出しており、「each against all」が英語圏では流布しているという。ルソーの『社会契約論』(ヌーシャテル手稿)*2にも「la guerre naturelle de chacun contre tous」が見られる。つまり、単数形-複数形がミックスになったペア。

 

個人的なひっかかりは「万人」で、ひっかかりポイントはふたつある。

ひとつは、微妙に比喩的な言い回しに聞こえる点。ここの「万」は「10,000」ではなく、「たくさん」であり、その延長として「すべて」の意味を持つのだろう。これはわりとよくあるものではある。たとえば英語の thousands of people は、字義どおりの「数千の人々」とともに、「たくさんの人々」という意味になるのと同じカラクリだ。hundreds of も同じように使えるし、hundreds of thousands もあるが、その使い分けは「たくさん」の漠然とした数と数字の桁がマッチするかということにつきるのだと思う。

(そういえば、ドゥルーズガタリMille Plateauxもこれと同じ用法ではないのかと思い、英訳をみるとはたして、A Thousand Plateausとなっており、ここの thousandは形容詞で、そこに不定冠詞 a がついて「1000」と「無数の」の両方の意味が入るようにしている——Thousand Plateausだと字義どおり「1000」になってしまうのだが、日本語は『千のプラトー』とストレートで、日本語の「千」には「万」にあるような比喩的な余地がないと思うのだけれど、はてさて。)

スケールの問題、規模の問題なのかもしれない。ホッブズにしてもルソーにしても、自然状態を想像した思想家たちは、いったいどれだけの数の人間をそのとき思い描いていたのだろうか。「万」の桁までは想定していただろうか。そこはきちんと調べてみないとわからないけれど(マーシャル・サーリンズは、ホッブズがトゥキュディデスの『ペロポネソス戦争記』を近代になってはじめて英訳していることを指摘しつつ、ホッブズの混沌のイメージはここからきているのではないかと示唆していたけれど、あの当時の都市や戦争の規模はどのぐらいだったのか、これも調べてみないといけないところだけれど)、現時点の直感としては、日本語の「万人の万人に対する」は数が大きすぎるのではないかという気がする。日本語のほうが、ラテン語オリジナルや英語バージョン以上に、はるかに混雑したイメージ、はるかに混沌としたイメージになっている気がする。

というよりも、万単位の人々が個として互いに争っているというシナリオは、いくらなんでも突拍子がなさすぎるのではないか。そこまで数がいたら、そのなかで自然発生的に派閥ができて、集団として相争うようになるという想像のほうが、妥当性が高くないだろうか。

 

ふたつめは、「万人」をどのようにフレーミングするのかという問題。「万人」と言うとき、わたしたちにその全体像は見えていないのではないか。もちろんわたしたちは「たくさんの人々」を思い浮かべるだろうが、それはあくまで万人の「部分」であって、その「全体」ではないのではないか。というよりも、万人の「全体」はそもそもイメージになるのかどうか。

その一方で、英語の all は、具体的な数として思い浮かべられるかはともかく、すべてのメンバーを(すくなくとも理念的には、理論的には)ロックオンしている。All といったとき、かなりおぼろげではあるだろうけれど、全体像がまったく見えていないわけではない。

このような譬えが正確かわからないけれど、漫画のコマで例えるなら、日本語の「万人」は、コマにごちゃごちゃ人がいて、でもそのコマの外にもまだ人がいるのだろうというイメージ。英語の万人は、大ゴマに大量の人がいて、それで全部。コマの余白はない。

では all と every では何が変わってくるか。俯瞰的に見るか、個別に総当たりにするかのちがいだとわたしは理解している。All というと、ひとりひとりを見ているのではなく、全員を全員として見ている。しかし every というと、1 + 1 + 1 + . . . 的なイメージ。

(ちなみに every と each もやはり違いがあって、every は抽象的なかたちでの「ひとりひとり」だけれど、each の「ひとりひとり」は具体的だ。たとえば、each of you とはいえるけれど、every of youとは言えない——まあ、everyone of you はアリなのだけれど、そこは脇に置く。もう一例。Everyone has a right to vote とは言えるけれど、何のコンテクストもなくいきなり Each has a right to vote というのはちょっと変な感じがする。つまり、each は「ひとりひとり」と数えていく「全体」がすでに認識されていないと使えないけれど、every のほうはそうではない。だから法律のように不特定多数を念頭に置いた文章では every を使うわけだ。こういってみてもいい。この説明を踏まえると、なぜ最初の挨拶がHello, everyone になるのかの理由は、最初に言葉を発するとき、わたしたちはまだ話し相手になる集団全員を個の集合としては認識できていないからだ、ということになる。とはいえ、以上の説明は、あくまでわたし個人の言語感覚で、言語学的に厳密な裏付けがあって言っているわけではないので、間違っている部分もあるかもしれない。あしからず。)

 

締めくくろう。

複数‐複数 all-all だと、バトルロワイアルを俯瞰的なところから眺めている。リングのような区切られたスペースのなかでそこにいる全員が全員と入り乱れてバトルするイメージ。

単数‐単数 every-every だと、ファイター1対ファイター2、ファイター1対ファイター3、ファイター1対ファイター4……、ファイター2対ファイター1、ファイター2対ファイター3、ファイター2対ファイター4……というように、ありえる組み合わせすべてがシミュレートされていくイメージ。

単数‐複数 each-all だと、まず「全員 all」が認識されている状況で、そのなかのひとりの視点から残りの全員を眺める感じ。「周りはみんな敵」という言い回しがいちばん無理なくフィットするのはこのペアだろう。

 

というわけで、こんなに長く書くつもりもなく、ワンパラグラフかせいぜい数パラグラフと思って書き始めたのだけれど、気がついてみればずいぶん長いものになっていた。

*1:それぞれの格変化については、適当にググったこのページにリンクしておく。

*2:Gallica からPDFがダウンロード可能。