うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

リアリズムの歴史史料の美術性:兵馬俑と古代中国〜秦漢文明の遺産〜

20220827@静岡県立美術館

県立美術館は家のそばにあるせいで、「行こうと思えばいつでも行けるさ」という気になってついつい後回しにしていまい、気づいたらもう終わっていたことが一度ならずあるのだけれど、今回はぎりぎり思い出して、夜間開館日だったのでふらりと行ってきた。

兵馬俑と古代中国〜秦漢文明の遺産〜」展のポスターには、「秦始皇帝の中国統一 漢王朝繁栄の秘密」というアオリが入っており、これはさすがに大きく出すぎではないかと思うが、秦の始皇帝兵馬俑を中心に、その前後——戦国春秋時代前漢時代——の俑の慣習を対置することで、始皇帝の試みがいかに突出していたのかが浮かび上がってくる。

始皇帝が作らせた兵馬俑は、等身大で、リアリズム的である点で、それ以前ともそれ以降とも異なっている。以前のものも以降のものも、サイズはもっと小ぶりで、デフォルメされている。

兵馬俑はもともとは彩色されていたのだという。黒い漆を下地として塗り、そこに、五行思想にもとづいたカラフルな色がのせられていたそうだ。恥ずかしながらまったく知らなかったけれど、ギリシャの彫像もじつは彩色されていたのに、一般に流布しているのは色が褪せて下地の石の色がむき出しになったものの画像であるのと同じ問題に感じる。

いま現在のあるがままの姿を写真にとったものは、たしかに「オーセンティック」である。ところが、表面に残っている顔料を分析して実証的に割り出すことができたとしても、オーセンティックな現物がないがゆえに——ないことはないらしく、色が残っている状態で出土したものもあるようだったけれど、数としては少数派ではないか——―、だいたいのところ、「当時の姿」を提示しようという試みは「再現」になってしまう。「再現」のほうが「真実」であるのに、それはどこまでいっても「偽物」になってしまう。「偽物」は言い過ぎだが、すくなくとも、「編集されたもの」とは言えるだろう。そのあたりが、絵画の修復とは違う。それはおそらく、絵画の修復がどちらかといえば引き算的なもの——堆積した汚れを取り払って、オリジナルの状態に戻す——であるのにたいして、彫像に当時の色を付けるのは足し算的なものであり、その足し算的なところを「余計なもの」と感じてしまうからではないだろうか。補う行為が、付け足す行為に見えてしまうのだ。

その問題はさておき、いくつか思ったこと。

3次元のリアルな造形技術は、文化的な差異が少ないところかもしれない。秦の始皇帝兵馬俑は一体ごとにモデルがいたかのように、体格も顔つきもかなり異なっている。まさにリアルなたたずまいだが、現実そのままの姿を模倣しているからこそ、そこには表現の遊びが入る余地がない。だから、兵馬俑はそのスケールとボリュームゆえに、モノとしての存在感は比類ないし(とくにこれが何千体も並べられていたら圧巻だろう)、当時の状況を知るための歴史史料としては計り知れない価値があるだろうけれど、「美術品」——見えているとおりに描いたり作ったりするのでは/だけではなく、五感とは別のフィルターを経由してもいるもの――として面白いのかというと、どうなのだろうという気もする。

3次元のデフォルメ的な造形のセンスは、はたして、歴史と共に進化してきたのだろうか。戦国時代に作られた、馬にまたがる人の像は、動物も人も丸みを帯びており、ユーモアがある。加工技術は進化したし、そのおかげて制作に要する、純粋に肉体労働的な意味での労力や時間は減ったはずだが、そのような必然の労働から技術によって解放されることで、わたしたちのセンスや想像力もさらにクリエイティブになっただろうか。

3次元のデフォルメは、ものによっては、リアリズムの崩れたものに見えてしまう。前漢兵馬俑にはそのように感じられる(すくなくとも個人的には)ものもあった。

始皇帝兵馬俑に話を戻すと、これほどのサイズのものを、それほど大量に作るのに大量の労働力が必要だったことは間違いないが、いったいどれほどの施設を必要としたのだろうかと思う。焼き物であるからには、焼いたものすべてが思っていたとおりになるということもないだろう。割れてしまうものも出てくるのではないか。焼くための窯の数やサイズにしても(なにせ等身大の馬のサイズのものを焼かなければいけないのだから)、必要とした燃料にしても、莫大だっただろう。そのような大規模事業を行うことができたのは、労働人口と用地が確保できたからだろうけれど、同時に、作業工程をマネジメントする技術があったからだろう。そう考えると、兵馬俑と、度量衡の統一や郡県制の導入といった行政システムの整備——制度的な普遍化——は、切り離して考えられない。

人間は装飾する生き物なのだろうか。住居スペースに飾るようなものに装飾をいれるのはわかる。しかし、装飾が装飾としてしか意味がないところ、装飾がいかなる意味でも使用価値を増加させないところに、装飾を入れるのはなぜなのか。たとえば春秋戦国時代の車軸受けで、かなり精密な模様が入っているものが展示物にあった。もちろん、呪い的な意味合いがあったのかとは思うが、それだけなのか。しかし、ここで考えるべきは、近代工業生産物がいかにそのような「遊び」を排除しているのかという点だろう。もちろん、装飾を過剰に入れるのも、禁欲的に入れないのも、どちらも美学的なスタイルではある。しかし、装飾を入れないというスタイルが、大量生産の効率化と結びつくとき、装飾は「それ自体として必要なもの」——美的にであれ、呪術的にであれ――から、「大目に見られる」——制作コストを上げすぎない、強度や性能に干渉しない、など——ものに成り下がるような気がする。

展示会場途中に、突然に『キングダム』のキャラ紹介コーナー(もちろん、展示物と絡めてのものではあるけれど)があり、意表を突かれた。これで集客アップにつながるのだろうか。

入口に展示品目録がなく、この展示会のチラシ自体もなかったので、好評につき品切れ中ということなのかと思ったが、帰り際に窓口の人に訊いたところ、そもそもないのだという(ホームページに詳細が載っているので、そちらを見てくださいと言われた)。本当にないのだろうか。いままでいろいろな展覧会に行ったが、目録一覧がなかったのはこれが初めてだと思う。