うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

翻訳語考。強調になる否定の接頭辞を持つ語の訳し方。

翻訳語考。強調になる否定の接頭辞を持つ語は、ストレートに訳すべきか、字面どおりひねるべきか。たとえばinvaluableは、valueが「ない」ではなく、valueという尺度に収まらない、つまり、ひじょうにvalueがあるという意味になる。pricelessもこれと同じ系統の否定である。

英語は否定が強調になることが多い。No less thanやno later thanのように、マイナスにマイナスを重ねると、プラスが前面に押し出されて、念押しした感じになる。

しかしこの感覚は日本語には異質なものだろう。「○○日まで」と「○○日より後ではなく」だったら、前者のほうがわかりやすいと多くの人が言うだろうし、後者を強調と捉える人はいないかもしれない。日本語の文脈では婉曲表現と受け取られるだろう。

いま悩んでいるのはimmense。初出は15世紀半ば。語源はラテン語のim + mensusで、他の英単語で置き換えればimmesurableがいちばん近いはず。字面どおりには「測り知れない」。

けれども、immenseのような頻出後の高い単語になると、英語話者にしたところで、これを否定の接頭辞が付いたものとして捉えているのだろうか。接頭辞が付いたものほうが、付いていないものより頻出度が高いことさえある(たとえばimmediate)。それに、immenseのように、接頭辞をとると形容詞でなくなってしまう単語の場合、何かの否定であることはあえて意識されないのではないかという気もするところ。リーダーズが、「広大な, 莫大な, 巨大な; 測り知れない, 限りない」というように、字面を温存するのではなく、意味がストレートに伝わる言葉を先に上げているのは、きわめて真っ当なやり方である。

以前、indispensableを「なくてはならない」と訳したことがある。これは我ながらうまい訳語だったと思っている。英語の字面にある否定の接頭辞inを温存しつつ、日本語として婉曲になりすぎず、強調のニュアンスを前面に押し出せたのではないか、と。

それを念頭に置いて、immenseに「途方もない」という訳語を当ててみたいと思うのだけれど、いまひとつ踏み切れないでいる。デジタル大辞泉は「途方」を「1 多くの方向。向かう方向。」「2 てだて。方法。手段。」「3 すじみち。道理。」と定義している。mense=measureと1の意味はズレるが、2の意味なら当たらずとも遠からず。そして、「途方」はおおむね否定表現と組み合わせて使う言葉だから、immenseという否定形しかない単語の相関物としてはうってつけでもある。

迷っている理由は、「測り知れない」で十分すぎるぐらい英語の字面を写し取れているし、意味のうえでもまったく過不足ないのに、そこからさらにもう一歩意訳に踏み込む必要があるのかと思うから。「そう思うのならなぜ「測り知れない」で満足しないのか」と訊かれたら、2つ理由を上げるところ。ひとつは、まったく不合理で、たんなる好みの問題になるけれど、「測り知れない」の字面が美しくないように感じるから。もうひとつは、「はかる」の多義性が気になるから。数は「計る」もの、長さは「測る」もの、重さは「量る」もの。それから、意味は大きく変わってしまうけれど、「諮る」や「謀る」もある。英語にはないエコーを加えてしまうことにためらいがある。

ともあれ、「広大な」や「莫大な」も、「測り知れない」も、「途方もない」も、すべて「正しい」のだ。正しさのうえで優劣があるわけではない。どれかが他のどれかよりも「より正しい」ということはないはずだ。そのとき翻訳者をしてどれかひとつを選ばせるのはいったい何なのだろうか。