うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

翻訳語考。「他者からのウィルスの獲得」?

このNYTの記事によると、アメリカ疾病管理予防センター(the Center for Disease Control and Prevention)はマスク使用についてのガイドラインの修正を検討中らしい。非感染者がマスクによって感染を防ぐことはできないけれど、無症状の感染者が知らず知らずのうちに感染を拡大してしまうのを防ぐ効果はある、と。多くのアジアの国々で誰もがマスクをしているのは、「集団心理と予防」のためであると記事が述べるとき、そこには、ちょっとした皮肉がこめられているようにも思う。

”Masks work by stopping infected droplets spewing from the wearer’s nose or mouth, rather than stopping the acquisition of the virus from others. Both medical grade N95 masks and flat face masks are made of a special melt-blown fabric, which is able to stop infectious particles even finer than a micron in diameter. But in many Asian countries, where everyone is encouraged to wear masks, the approach is about crowd psychology and protection.” 

英語表現で面白いなと思うのは、the acquisition of the virus from othersの部分だ。acquireは、普通、「獲得する」の意味で、獲得されるものは、えてして、良いものだ。acuiqre knowledge, acquire a petというように。しかし英語(というか、ここは西洋語と一般化してもいいのかもしれない)の動詞は、抽象的な次元では、ベクトルを表現するもの、物事の方向性や移動を表すものでもある。acquireの場合は、何かを自分のほうに引き寄せる、というような感じだろうか。aという指向性を表す接頭辞に、「探す」のような意味をもつquireという語幹がくっついて出来ている。

この抽象的な次元の意味(言葉の表現する矢印)は、名詞化されると強調されるところがある気がする。とはいえ、「他者からのウィルスの獲得」というのが、現象の流れ(他者から自分へ)としては完全に明晰であるとしても、日本語との一対一対応で「獲得」という語を当てはめてしまうと、ぎょっとさせられてしまう。

「他人からうつされる」「他人からもらう」したほうが自然だろうけれど、ここで能動(獲得すること)が、受動(獲得される)にすり替わってしまうのは、重要だ。日本語と英語は、このあたりの主語と目的語のあいだのコントラスト比が大きく異なる。日本語のほうが曖昧で、ぼやけているように聞こえるとしたら、それは、日本語は主語がなくてもよいからではなく――それはよく耳にする意見だろう――日本語は動作主とその受け手の対立をはっきりとマッピングしないからであるように思う。日本語のほうが、どこからか動作が生起し、どこともつかぬところへ運動が消えていくようなニュアンスがある。しかしこの幽霊的な言語世界は、現在、さまざまな問題を引き起こしているようにも思う。

感染が拡大するにつれて、ウィルスという(すくなくとも肉眼では)不可視の存在の危険がますますしのびよってきたということだろうか。見えないが、すでにいる。まだ症状というかたちで表面化してはいないが、すでに身体の内側で稼働している。そして、その内側で稼働しているものが、飛沫というようなかたちで外界にまき散らされる。しかも、予想以上に長いあいだ、予想以上に遠いところにまで。

見えないものから身を守るには、対症療法的な自衛では不可能だろう。元を封じ込める必要がある。自分が元になる可能性を踏まえて、いや、それどころか、すでに自分が元であるかのように、誰もが振る舞う必要があるだろう。「集団心理」による万人のマスク着用が、皮肉ながら、そのような「かのように」の状況を作り上げることに成功しているのかもしれない。「自衛」という自分ファーストな意図が、結果的に、「無自覚の感染拡大」を防いでいるのかもしれない。

そのためには、明示化しない言葉のほうがいいのかもしれない。起源も帰結もぼんやりとした言説のほうが、不安を煽り、恐怖にたいする防衛反応を強化させるかもしれない。しかし、そのようにして築き上げられた不安にたいする不安の包囲網が、はたして、いつかうまく解除されるのだろうかというと、どうだろう。この不安の不安を常態化させないためにも、主語と目的語を際立たせるような言葉遣いが必要なのではなかろうか。