うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

翻訳語考。equal は「平等」か「対等」か。

翻訳語考。equal は等号記号の「=」であり、数字的な意味での「同量」——twice 3 is equal to 6——を表すが、同時に、ひとつずつ足し合わせてピッタリ同じというよりも、トータルな意味での「同等」——we are equal——の両方をカバーしているように思う。つまり、数えられる場合、数えられない場合の両方をカバーできる単語であるように思う。

しかし、このどちらをも含む日本語は、残念ながら存在しないのではないか。「平等」は、第三者的な視点を必要とし、客観的に測定可能な部分が前面に出てくる一方で、「対等」は主観的な認識であり、究極的には、客観的に測定可能なものには還元できないのではないかという気がする。

「わたしはあなたと平等だ」は日本語としていまひとつしっくりこない——「平等」を語るには、「わたしたちは平等だ」というように、1人称単数から脱却しなければならないからだ——が、「わたしはあなたと対等だ」はすっと入ってくるように感じる。「平等」は複数形の主語を要求するが、「対等」の主語は単数形でも複数形でもありうる気がする。

それはおそらく、「平等」が、わたしたちの「在り方」というよりも、わたしたちが「持っているもの」にかかわる部分が大きいからではないだろうか。たとえば、「機会の」平等であるとか、平等な「権利」というように。「平等」は、「何かについて」の比較である。

しかし、「対等」はまさに、わたしたちの「在り方」にかかわっているのではないか。たとえば、「あなたは億万長者で、わたしは一文無しだが、わたしたちは対等だ」と言うことには何の矛盾もないように思うが、「あなたは億万長者で、わたしは一文無しだが、わたしたちは平等だ」は矛盾して響かないだろうか。

この意味で、制度的なレベル、法律的なレベル―—三人称という普遍性の審級——でわたしたちが語るべきは「平等」であり、日常的なレベル――一人称/二人称という個別性の審級――においては「対等」の意識を具現化させるべきなのだと思う。

相手の物理的な状態や条件にかかわらず、「わたし」と「あなた」のあいだにどれほどの隔たりがあろうとも、相手のことを「対等」な存在として認識し、そのような認識にもとづいて行動すること、それこそが、他者の尊厳をあたかも我が物であるかのように尊重することになるのではないか。

(ところが、日本語の文脈ではこれが逆転しているように思えてならない。疑似客観性と言おうか、似非平等性と言おうか、「どっちもどっち」という相対主義は、「対等」なき「平等」——それとパラレルをなすのは形式上の自由であろう――を招き寄せているのではないだろうか。)