ウィルソン夏子のテクストには独特の手ざわりがある。純粋な伝記としては、彼女の記述は粗いだろう。誠実ではあるし、的確ではあるが、厚くはない。
しかし、にもかかわらず、彼女の伝記は、電話帳のように分厚い伝記よりも圧倒的に鮮烈だ。それは、彼女が、語るべき対象のコアにあるものを抉り出すからだろう。エドマンド・ウィルソンは、さまざまな女性を肉体関係を持った男として、ガートルード・スタインは、自らの天才を信じるおばさんとして、描き出す。
すると、彼女のイメージするウィルソンやスタインが、生き生きとページの上に浮かび上がり、わたしたちに生々しく迫ってくる。まるでスタインやウィルソンがわたしたちの同時代人であるかのように。彼女の想像力をとおして、スタインやウィルソンがいまいちどテクストのなかでよみがえったかのように。
そのように呼び覚まされたイマージュが客観的に正しいのかどうか、それらがウィルソン夏子の主観的な思い入れにすぎないのかは、別問題だ。わたしたちは彼女のヴィジョンをとおして、過去の人物の魂に触れる。それが真正な経験であることは間違いない。
それは、客観的には正確であるにせよ、データの集積にすぎないような分厚い伝記よりも、世界の真実に近づくための正しい方法であるように思う。