うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ブルックナーの真実(田代櫂『アントン・ブルックナ――魂の山嶺』)

まさに魂のこもったテクスト。ブルックナーにたいする愛にあふれている。

しかし、ブルックナーを美化し、聖人に祀り上げるのは、著者のめざすところではない。本書は、一方においては、わたしたちのステレオタイプ的なブルックナー像を強化する。なるほど、まちがいなく、ブルックナーは田舎じみた野人であり、方言丸出しの卑屈な人物であり、自分の作品をもっとも下手に語る作曲家である。猟奇的犯罪に尋常ならぬ興味を示し、行水をしながら作曲し、老いても若い女性に結婚を申し込み続けた、ズレた人間。

その一方で、ブルックナーの洗練された側面も丹念に描き出されている。卓越したオルガン即興奏者、対位法に精通した音楽家。必要とあれば、方言から標準語に難なくスイッチできた大学人。

著者はクラシック・ギタリストであるというが、にもかかわらず、楽譜はまったく引用されない。楽曲紹介はすべて印象批評であり、そのような記述によれば、ブルックナーの音楽は無人の荒涼たる自然の風景ということになるようだ。

ブルックナーの音楽を過度に文学化しようというのではない。しかし、本書は、音楽を脱音楽化し、美術や、同時代の文化的な文脈にも置き直していく。そうすることで、わたしたちは、ブルックナーとリストの微妙な反目――貴族趣味的なリストと、粗野な田舎者のブルックナー――、ブラームスとの根深い対立――天性のブルックナーと職人のブラームス――がいっそうよく理解できるようになる。

キリスト教とゲルマン性の二重構造は、ブルックナーの作品にもひそんでいると見てよい。宗教曲の作曲家として成功していた彼が、交響曲に手を染めたのは必然の成り行きだったといえよう . . . 彼の交響曲は偽装した宗教曲ではない。むしろその根っこの先は、ドイツ・オーストリア集合的無意識の奥深く、ゲルマンの古層に触れているように思える。ブルックナー交響曲は、キリスト教の表皮を乗せたまま、彼の無意識の底から噴出した黒い山塊だ。

それはヴァーグナーのスペクタキュラーなゲルマン神話劇とは異なる、荒涼とした原初の記憶である。それは雪と氷河の薄明の地獄に繰り広げられる、無人の音響世界であり、夢幻的なカタストローフのヴィジョンである。それはまた、森の祭司と星々との交感であり、その研ぎすまされた宇宙感覚である。

ブルックナー交響曲には三つの性格的要素がある。宗教性(キリスト教)、自然の息吹、そして土俗性(ゲルマン性)である。(183‐84頁)