マーラーを室内楽的編成のためにアレンジしようというのは、きわめて反マーラー的であると同時に、マーラーの精神にかなう試みでもあるようにも思う。なるほど、たしかに、シェーンベルクたちの私的演奏協会のためにエルヴィン・シュタインが編曲した4番(1921)——リノス・アンサンブルによる録音が20年くらい前に日本でも話題になった——のような試みはあった。けれども、かならずしも全編をとおして室内楽的とはいえない他の楽曲を室内楽的オーケストラのために編曲しようという近年の試み——クラウス・シモン(Klaus Simon)の12345679番、ミシェル・カステレッティ(Michelle Castelletti)の10番——を聴きながら、大オーケストラ曲を縮減することの面白さ愉しさとその問題性を同時に考えずにはいられない。
後期ロマン派の音楽は肥大傾向にあった。楽曲の規模という意味でも、奏者の規模という意味でも。交響曲においてその極点を成すのはグスタフ・マーラー(1860‐1911)であり、交響詩とオペラにおいてその極点を体現したのはリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)であろう。同世代ではあるものの、80歳を越えるまで長生きして第二次世界大戦を生き延びたシュトラウスと、第一次大戦を見ずして50歳を少し越えたところ亡くなったマーラーは、同時代人という感じはしない。
しかし、彼らは1880年代から90年代にかけて、まるで競い合うようにそれぞれの分野で肥大してゆく楽曲を制作していた。ドン・ファン(18891111)、1番(18891120)、死と変容(1890)、ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら(18950506)、復活(18951213)、ツァラトゥストラかく語りき(1896)、ドン・キホーテ(1898)、英雄の生涯(1898)、家庭交響曲(1903)、サロメ(1905)、6番(1906)、7番(1908)、エレクトラ(1909)、8番(1910)、薔薇の騎士(1911)、9番(1912)。
おそらくその極北をなすのは、シュトラウスによる交響曲、アルプス交響曲(1915)。120人以上の奏者が必要であり、ウィンドマシーンやサンダーマシーンなどの特殊打楽器が使われる。ウェーベルンの管弦楽のための6つの小品(1909)、シェーンベルクのグレの歌(19130223)、ストラヴィンスキーの春の祭典(19130529)、1913年から1915年にかけて作曲されたというベルクの管弦楽のための3つの小品は、まさに同時代的な試みであったと言うべきだろう。
しかし、ここでは、室内楽的な細密化が同時進行的に起こっていた。それどころか、ナクソスのアリアドネ(1912)のように、楽曲レベルのみならず、編成レベルでもではっきりと縮小化の傾向はみられたし、それはどうやら、第一次大戦による財政的・人員的問題によって拍車がかかったようである。戦後、新古典主義が花開いていく一方で、新ウィーン学派もまたミニチュア的な方向に向かっていく。
マーラーの室内楽化が現代になって再び台頭してきたのは、もしかすると、パンデミックによって強いられた部分もあるのかもしれない。大編成を集めることが物理的に、ロジスティックに困難であっても、大編成の曲をやりたいという欲望による妥協の産物。
それにしても、驚かされるのは、室内楽編成でも、マーラーのはちゃんとマーラーに聞こえること。もちろん迫力不足は否めない。物量だけが可能にする圧倒的な、暴力的なまでの存在感はここにはない。それでも、和声的な意味でも、音色的な意味でも、過不足はないように聞こえる。
興味深いのは、編曲者の個性のようなものが聴こえないところ。たしかに、カストレテッティによる10番の編曲は、グリッサンドを露悪的なまでに大胆に取り入れており、ぎょっとさせられる部分はあるとはいえ、全体として聴こえてくるのは、マーラーの音楽のエッセンスだ。
しかし、室内楽だからこそ、奏者の力量がダイレクトに表出してしまうし、録音マジックがあるように感じる。
たとえば、ジュールズ・ゲイル(Joolz Gale)——ボサボサの髪はどこかボリス・ジョンソンを思わせる——とアンサンブル・ミニ(Ensemble Mini)による9番と10番、トマス・ゼンデルガール(Thomas Søndergård)とスコットランド王立楽団(Royal Scottish National Orchestra)による7番は、正規に録音されたものだからなのか(それとも、編成が、室内楽とフルオケの中間的なものだからなのか)、雑に聞いていると室内楽編成であることに気が付かないかもしれない。
その一方で、クラウス・シモンの編曲版を精力的に演奏しているスイスのピーエル=アラン・モノ(Pierre-Alain Monot)とヌーベル・アンサンブル・コンタポラン(Nouvel Ensemble Contemporain)は、上質とは言えない録音のせいで、オーケストラの音が痩せているように聞こえてしまう部分がどうしてもある。
とはいえ、音がそぎ落とされると、マーラーの音楽のエッセンスそのものが迫ってくるように感じられる。指揮者の解釈でもなければ、奏者の解釈でもなく、マーラーの音楽がストレートに響いてくるように感じられるのだ。音が薄いせいで、フルオケでは埋もれてしまって聞こえないかけあいがはっきりと表面化する。指揮者の采配のおかげではなく、少人数による編成のおかげである。
とはいえ、この痩身体のマーラーをファーストチョイスとして推薦できるのかと問われると、躊躇する。やはりこれは玄人的なものであり、オリジナルを知っている者が〈あえて〉愉しむべき変わり種ではないだろうか。