うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

和声を操るリヒャルト・シュトラウス:グレインジャーのアレンジから聞こえてくるもの

リヒャルト・シュトラウスにとって、オーケストレーションは、作業的にこなせるものだったらしい。子どもが横で騒いでいるリビングであろうと、なんの問題もなくスコアの作成を機械的に進めていくことができた、とどこかで読んだことがある。
ポスト・ワーグナー世代であるシュトラウスは、肥大化するオーケストラを鳴らしまくる大味な曲を書いてみたり、そうかと思うと、小さなオーケストラを万華鏡のように夢幻的にきらめかせるミニチュア的作品を書いていたりする。
前者の路線の極北に位置するのは、ウィーンのコンツェルトハウス落成式のために委嘱された「祝典前奏曲」(Op. 61)か、大日本帝国の委嘱で作った本当に馬鹿みたいな曲「日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲」(Op. 84)であり、後者の極点と言えるのは、クープランの編曲——舞踏組曲TrV 245)とディヴェルティメント(Op. 86)――だろう。
どちらの方向でもオーケストラの魔術師であったからこそ、オーケストラの多彩な音色のパレットに依存しないモノトーンな音楽をシュトラウスと結びつけるには、直感に逆らわなければいけない部分がある。しかし、もしかすると、シュトラウスのほうが、マーラーシェーンベルクなどより、音の色に頼らない音楽作りをしていたのかもしれない。 
「夕べ」(Op. 34-1)や「ダフネの木に」(TrV 272a)といった合唱曲を聞けば、シュトラウスの音楽の官能性が、それ単体で成立してしまう単音の存在感ではなく、和声という複数の要素の関係性の移り変わりといった動的構造によるものであることが、はっきりと聞こえてくる。
これは歌曲を聞くとさらによくわかる。「4つの最後の歌」は、ピアノ伴奏版でも、きわめて美しい。オーケストラ版だとソロ・ヴァイオリンがあまりにも印象的な「朝」(Op. 27-4)にしても、ピアノ前奏のアルペジオのゆらめくような和声がかきたてる憧れは、シューベルトシューマンピアノ曲や歌曲につながるものだ。
ということを、パーシー・グレインジャーによる「薔薇の騎士」の最後の二重奏を主題としたピアノ曲「Ramble on the Last Love Duet」(「幕切れの愛の二重奏について、とりとめもなく」)を聞いて、あらためて感じた。

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