うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

忠実で正統で挑発的な伝統の王道:Voyager Quartetの超越的な穏健さ

弦楽四重奏はとても親密な交換なのであって、精密さを競うものではないということを、Voyager Quartetの演奏によってあらためて思い知らされている。

19世紀後半の量的にも質的にも肥大化するオーケストラは必然的に規律訓練を必要とするものになっていった。数の上では相変わらず四人のままであり続けた四重奏にしても、20世紀半ばのジュリアード四重奏団の登場とともに、メカニックな精緻化が押し進められた。技術的なヴィルトゥオーゾが当たり前になったいま、Voyager Quartetの演奏は少々緩いように聞こえる。

しかし、技術が足りないからそうなっているのではない。あえてそうしていないのだろう。技術的な卓越性にたいする軽蔑のようなものがここにはあるような気もする。デジタルに揃えるよりも大切なことがある、アナログなおおらかさでしか到達しえないものがある、と言わんばかりの何かが。

公式ホームページの英語ページにはきちんと記載されていないけれど、ドイツ語ページによれば、メンバーはそれなりに名のある四重奏団やオーケストラのメンバーだったという。

ヨーロッパの団体のくせになぜ英語名をカルテットの名称にしているのかと思えば、これは、1977年に打ち上げられたNASA無人宇宙探査機「ボイジャー」の「1号」と「2号」から取っているとのこと。それらに搭載されていた「ゴールデンレコード」の西洋クラシック音楽のレパートリーを引き受けることが、Voyager Quartetの自意識的な使命であるようだ。

再び公式ホームページ(ドイツ語)によれば、この四重奏団が仰ぐのは「イタリア四重奏団、アマデウス四重奏団、ボロディン四重奏団」なのだという。それはつまり、ジュリアード四重奏団によって駆逐されてしまった古き良き日の、イタリアとユダヤとロシアを含みこむ、ヨーロッパの伝統である。

これまでの録音レパートリーは、シューベルトの『冬の旅』、マーラーワーグナーの編曲になる。四重奏団のヴィオラ奏者による編曲だが、とりたててヴィオラが主というわけでもない。

誰かが突出するのではなく、四人がそれぞれにリードするかたちになっている。オーケストラの不可能な再現ではなく、弦楽四重奏の可能性の延長を目指すような編曲だ。弦楽器にはできないことを無理にやらせるのではなく、弦楽器にできること(しかし、通常の曲ではあえてやろうとはしないかもしれないボキャブラリー)を駆使するような、そのような編曲。

現代的すぎていない。オーケストラスコアや歌曲をたんに弦楽四重奏に移し替えただけではないけれど、ことさらに不協和音や不連続を導入してやろうというこれ見よがしなところがない。わかりやすくしようと媚びを売っているわけではないが、わかりにくくしようと虚勢を張っているわけでもない。

大人の演奏というのは、こういう演奏にこそふさわしい賛辞だ。ふくよかで、余裕がある。正確ではあるが、正確であることにこだわりすぎていない。抒情的ではあるが、感情に耽溺してはいない。技術はあるが、それをひけらかそうとはしない。伝統をリスペクトするが、それにがんじがらめにはなっていない。引き継ぐべきものを取捨選択し、そこに、自分たちが寄与すべきであると信じるものを足している。

伝統は、過去の忠実なコピーではありえない。変わりゆく現実と歩調を合わせて、自らも少しずつ変わっていく。それが、生きた伝統のあるべき姿だろう。Voyager Quartetが追求するのはまさにそのような柔軟に変化する忠実で正統な、だからこそ、穏健でありながら挑発的でもある、伝統の道である。

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