うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

峻厳な音楽、異化するモダニズム:ギュンター・ヴァントの醒めた超越性

峻厳という言葉がギュンター・ヴァントほど似合う指揮者はこれまでもこれからも存在しないのではないかという気がしてならない。ヴァントの音楽の鋭さは比類ない。ほとんど人を拒むような、音だけを求めるような、孤高の高貴さ。

1912年生まれヴァントは21世紀まで生きた。晩年はきわめて限られたレパートリーしか振らず、ドイツの交響曲作家、なによりブルックナースペシャリストであったけれど、それはあえての選択であり、同時代の音楽に背を向けて生きてきたわけではない。シェーンベルクからメシアンヒンデミットからツィンマーマンまで、いわゆる前衛音楽を、ベートーヴェンシューベルトブラームスと同じように愛し、演奏していた*1。 

晩年のレパートリーが想起させるのはドイツ伝統主義者の姿だが、ヴァントは自身きわめてモダンな、それどころか、モダニストな指揮者だったのだと思う。彼が求めたのは、どっしりとした低音を基礎にして高音を積み上げるといった静的秩序ではなく、それぞれのパートがダイナミックに舞い踊る動的生命だ。だからヴァントの指揮する音楽では、低音が重たくなることはないし、高音のパートが全体を圧倒することはない。それぞれの楽器、生き生きとしたラインを描き出し、それらが互いに自律したまま、生き生きと絡み合う。

かなり長い指揮棒は、ヴァントが古い世代に属していることを告げている。ひとつのオーケストラと長期にわたる関係を築いたというのも、きわめて旧時代的ではある。しかし、彼の作る音楽は、最後まで、20世紀前半の前衛の精神を引き継ぐものではないかったかという気もする。

1990年代の映像に見るヴァントには身体的な老いがはっきりと見てとれる。背骨は曲がり、痩せこけている。しかし、指揮棒の大きく軽快な動きや目線の力は、壮年期と何ら変わるところはない。肉体の必然的な衰えの結果、運動性は落ちてはいるものの、指揮スタイルは変わっていないように見える。体幹はブレないが、フットワークは軽く、とてもリズミック。

ヴァントの音楽は和声的というよりも旋律的だ。音と音は、溶け合うというよりも、ぶつかり合う。ヴァントと同世代で、ヴァントと同じくブルックナーに心酔していたチェリビダッケが、音を空間に溶け合わせるような、時間を空間に融解させるような方向を選んだとしたら、ヴァントは、空間のなかに音を屹立させるような、対抗性を志向した。それはエーリッヒ・クライバーを思わせるような、空間を切り裂くアグレッシヴな音楽だ。ヴァントの音楽は空間に挑み、空間なかでそびえたつ。

美音をあえて避けていたのではないかという気すらする。鋭い音はどこかぶっきらぼう。鋭利さの方向で洗練されているわけではない。ざっくりと切り込まれ、切り詰められる。切断面は切りっぱなしで、磨き上げられているわけではない。雑というのではない。ただたんに、無頓着なのだ。細部を/まで磨くことに価値を見出せないかのように、求めるべきは本質であって、それ以外のことはすべて切り捨てることを決めたかのように。

しかし、そこに愉悦がないわけではない。甘美ではないし、耽溺はない。ある意味、すべては異化されている。けれども、そのような人為性を愉しむような突き放した距離感が、ヴァントの音楽にはある。テクストそれ自体を追求したヴァントは、文学批評で言えば、ニュークリティシズムに近いのかもしれない。彼がドイツの交響曲作曲家たちを敬愛していたのはまちがいないとは思う。けれども、彼の敬愛の対象は、作曲家その人ではなく、作品それ自体のほうにあったはずだ。ヴァントの音楽は非主観的であり、非人称的である。

ブルックナーを振り続けたヴァントだが、彼の音楽からは宗教の匂いがしない。神秘性も薄い。超越的なところはあるが、それは言ってみれば、理性的な彼方であって、未知や不可知の彼岸ではない。ヴァントはわたしたちは向こう側に連れていくのではなく、此岸に、彼岸的なものを出現させ、それをわたしたちに垣間見させてくれる。

それは圧倒的な体験ではあるけれど、没入的でも、没我的でもない。圧倒的でありながら、異化的でもある。醒めた超越性、祈り憧れる冷静さ。バウハウス的なインダストリアル・デザイン。複製技術時代における、複製技術によるシンギュラリティ。モダニストによる、本質的に反近代的なロマンティシズムの、近代的な表象。

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*1:ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団とのシェーンベルクの「5つの管弦楽曲 op. 16」、バルトークの「ティヴェルティメント」や「弦楽とチェレスタのための音楽」、NDR放送交響楽団とのストラヴィンスキーの「火の鳥」は、ひじょうに縁取りの深い、ひじょうに見通しの良い演奏になっている。ブーレーズのようにすべての音が浮かび上がってくる構造型の演奏(20世紀中期以降の音楽から逆照射した解釈)でもないし、ロマン主義的な路線の延長にある旋律優先型の演奏でもなく、自律的に動き回る各パートが生き生き絡み合うタイプの演奏。もしかすると、ここにもっと愉悦的なものを注ぎ込み、耽美的に音を磨くと、ピリオド楽器を経由して20世紀音楽を再解釈している指揮者たち——たとえば、フランソワ=グザヴィエ・ロト——の音楽に近づくのかもしれない。

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