うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ケアの価値転換:ケア・コレクティヴ、岡野八代、冨岡薫、武田宏子訳『ケア宣言——相互依存の政治』(大月書店、2021)

ケアにまつわる皮肉は多くありますが、そのなかの一つには、実際には富裕層こそが最も依存的であり、彼女たち・かれらは、数え切れないほどの個人的な仕方で、お金を支払う見返りにサーヴィスを提供してくれる人たちに依存している、という皮肉があります。確かに、彼女たち・かれらの地位や富は、ナニー、家政婦、料理人、執事から、庭師、そして世帯の外でそのあらゆるニーズや欲求に応える多くのワーカーたちに至るまで、常に支援と注視を提供してくれる人々がどれほど多くいるのかを、部分的に反映しています。それにもかかわらず、超富裕層が自分たちの行為能力について疑いを挟まず、自らをケアしてくれる人たちを支配し、つまり、解雇したり後任を雇ったりする能力をもっているかぎり、この深く根ざした依存は隠蔽され、否定されたままなのです。さらにいえば、裕福な者たちは、依存を、ケアワークの微々たる稼ぎに頼っている人々の経済的従属と同義とみなし、依存の意味をすり替えることによって、ケアをしてもらうためにお金を支払っている相手に、自らの依存を投影します。他方で、ケアされなければならないニーズを自らももちつづけているということを、認めることを拒んでいるのです。(39-40頁)

 

ケア・コレクティヴが試みるのは、わたしたちの世界の捉え方にパラダイムシフトを起こすことである、とまとめられるように思う。わたしたちが相互依存する存在であること、政治にも親族関係にもコミュニティにも国家にも経済にも世界もケアで回っていることは、これから達成すべき目標ではなく、すでに達成されている現実である。

だから問題は、ケアがないことではない。問題は、ケアがあるにもかかわらず、そのことが認識されていないことである。では、なぜすでにつねに世界に遍在しているケアがわたしたちの認識からこぼれおちてしまっているのか。

それは一方で、ケアというものそれ自体の性質に起因するものだろう。ケアは相反する感情をかき立てるものであり、正の感情だけではなく、負の感情につながることもある。ケア自体が、アンビバレントなものである。

しかし、それよりもはるかに問題なのは、現行の世界秩序がケアを搾取している点だ。男性的価値観はケアを貶める。資本主義経済はケアを金銭的なものに還元する。国家による福祉(福祉国家)はケアを囲い込み、ケアを与える対象を国民に限定するし(ただし、すべての国民が無条件に福祉を受けられるわけではない)、そのような囲い込みは対外的にも発生する(難民や移民にたいする国家のケアは限定的である)。

目指すべきは、つねにすでに遍在しているケアを、そのような束縛から解放すること、ケアを自由にすることであり、そのためにはケアの価値を正しく認識する必要がある。つまり、二重の意味でケアを「見直す」こと――ケアを再考し、そうすることで、いまは貶められているケアの価値を取り戻すこと――が必要なのだ。

 

care という言葉は多義的であり、定義しづらいものではある。ケア・コレクティヴが参照するジョアン・トロントの定義によれば、まず区別すべきは、care about と care for と care with であり、care about は「他者への感情的な没入や愛着」を示し、care for は「直接ケアするという物理的な側面」が含まれており、care with には「この世界を変革するためにわたしたちがいかに政治的に動員されるか」を描いているという(38頁)。

訳者たちは、care about を「関心を向ける」、care for を「配慮する」、care with を「ケアを共にすること」と訳している。また、訳者たちによる脚注(38頁)によると、トロントはケアを5つの局面——① caring about、② caring for、③ care-giving、④ care-receiving、⑤ caring with——に分けているが、ケア・コレクティヴは「特に①②⑤に焦点が当てられており、かつ②は③と同様の意味で持ち入れられている」(39頁)とのことである。

英語の用法を踏まえてここで付け加えおくことは、すべての始まりは、「物理的な」意味で直接にケアすることではなく、「関心を向けること caring about」、つまり、興味を持つことである。しかし、さらにいえば、ケアする対象を、対等な対象として認識すること――無視しないこと、見下さないことも、そこには含まれているのではないか。

たしかに、対等ではない関係のあいだにもケアはあるだろう。大人と子ども、成年と老人、持つ者と持たざる者、というように。しかし、そこに上下関係が持ち込まれるや、ケアはネガティヴなものに、支配や上から目線に、従属や卑屈さに、容易に転換してしまうだろう。

なぜケアが「フェミニスト的、クィア的、反人種差別的、そしてエコ社会主義的視点を、精巧につくりあげていかなければならない」のかと言えば、そのようなヒエラルキー的なマインドセットがわたしたちの感じ方や考え方を規定しているかぎり、ケアはそのポテンシャルを十全に発揮することはできなからである。

ケアは他者にたいする関心(care about)から始まり、実際の行動(care for:気になるから何かする)につながり、そこから連帯(care with:ケアをとおした/という共生)の可能性が開けてくる。

だからこそ、ケアをめぐる価値転換は、わたしたちのマインドセット自体の価値転換をも同時に必要とするのである。

 

ケア・コレクティヴの議論をざっとまとめれば以上のようになるのではないかと思う。

それはそのとおりだと思う。しかし、そのためには、資本主義というシステムが、国民国家というシステムが、根本から転換される必要があるのではないか。ケアを解放し、「相互依存の政治 politics of interdependence」を現実のものにするには、弥縫策では不十分で、もっとずっとラディカルな革命が必要になるのではないか。

著者たちはその可能性から微妙に顔を背けているのではないか。現在のシステムのバージョン・アップで、ケアがわたしたちの生の核心にくるような世界のほうに、わたしたちは向かっていくことができるのだろうか。

そこが疑問として残る。

 

訳語について2点。

they を「彼ら」と機械的に訳していない点は大いに評価したいが、「彼女ら・かれら」という表記はちょっとひっかかる。「彼女ら」をつねに先行させているところではなく、「かれら」がひらがなになり、字面としてちょっと抜けた感じがする点がひっかかる。「彼女ら」、「かれら」の順番にした理由はよくわかるし、それは本書の精神——フェミニスト的視点の必要性――と整合するところではある。「彼ら」があまりのも長きにわたってあたりまえと思われてきたのだから、まずはこれを転換する必要があるのはそのとおりだ。しかし、「かれら」とひらがなに開く必要があったのかどうか。

各章のタイトルについている「ケアに満ちた」という形容詞の原語は caring。この訳語でいいのだろうか。ちょっと「careful」の訳語のように見える(まあ、careful を、本書が言う意味での care が 「いっぱいに full」あるという意味で使うことはまずないけれど)。

これは訳者とわたしの本書の捉え方が違うというか、care のどのレベルにおける価値転換を最重要視しているかの違いなのだと思う。わたしに言わせれば、「care があるがあるかないか」(正確に言えば、現実にはまちがいなく存在しているケアを、事実としてあると認めるのか、それとも、事実に逆らってないと言い張るのか――またはあることを認めつつも、その価値は認めない――)がもっとも力点を置くべきところだと思うのだけれど、訳者たちはその後に来る、care がその真の価値を認められたあとの世界を「ケアに満ちた」ものにすることを強調しているのかもしれない。つまり、わたしは現在=現状をフォーカスし、訳者たちはもっと未来志向なのかもしれない。

しかし、かりにそうだとして、ケア・コレクティヴが目指しているのは、この世界をケアで満たすことなのだろうか。ケアが満ちたらそれで問題は解決するのだろうか。

わたしが理解したかぎりでは、真の問題は、量的なものというよりも、質的なものだ。ケアが足りないことというよりも、ケアの真価の誤認や搾取が、真の問題である。ケアの真価が歪められている世界では、たとえケアが満ちていようと、そのケアは搾取されるばかりだろう。それは、資本主義経済のなかでは、たとえどれほど使用価値のあるものであろうと、どれほどそれ自体として価値があるもの、わたしにとってプライスレスな価値があるものであろうと、交換価値によってしか、プライスに換算されることによってしか、その価値を認められないように。質的な価値転換がなければ、量的な増加は不発に終わるばかりだろう。

もちろん、訳者たちもそのあたりはわかったうえで、「ケアに満ちた」という訳語を選択したのだろうとは思うけれど、この訳語のせいで、ケア・コレクティヴが意図した以上に、日本語訳はケアに満ちた優しい世界をわたしたちに想像させてしまっているのではないかという気もする。

ケア・コレクティヴが注意を促しているように、相反する感情をかきたてるものである以上、ケアは、あればあるほどいいというものでもないのではないか。そのあたりをどう捉えているのか、ぜひ訳者たちに訊いてみたいものだ。